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ゴジラ老人シマクマ君の日々

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2021.03.14
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​​保坂和志「この人の閾」(新潮文庫) 保坂和志「この人の閾」(新潮文庫)を久しぶりに読み返しました。1995年夏の113回芥川賞受賞作です。​​
​​ 学生時代に同じ映画サークルの1年先輩だった女性「真紀さん」の家に、仕事で近所まで来て、偶然時間が空いてしまった​「ぼく」​が訪ねて行きます。二人で庭の草むしりをしたり、缶ビールを飲んだりして、半日を過ごした日のおしゃべりと、おしゃべりをしながら「ぼく」がふと考えたことが記されている作品です。​​
​​P65(新潮文庫版)
 真紀さんのいる場所は今この自分の家庭の中心ではなく、家庭の「構成員」のそれぞれのタイム・スケジュールの隙間のようなところで、それでは「中心」はどこにあるかといえばたぶんそんなものはない。子育てというか子どもの教育を中心においてしまうような主婦もいるが、真紀さんの場合どうもそれもなくて、たとえばモンドリアンの絵のように彩色されたキャンバスの上で何本もの車線が交差しあっているような絵を、ぼくはそのとき想像した。そして、現代芸術というのは絵画も音楽も何でもどんどん抽象度を増すが、家庭もそうだったのかと思ったりした。
​P75​
「ホラ、ヨハネの福音書のはじめに『初めに言葉があった』っていうのがあるじゃない」
「うん」
「 ― 『初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった』っていうの。
 それから何だったっけ?
 細かいことは忘れちゃってるけど ― 、すべてのものは言葉によってつくられて、言葉に命があって、その命は人の光で、光は闇の中で輝いた。闇は光に打ち勝たなかった―っていう意味のこと言ってるでしょ?」
「うん」ぼくも真紀さんもキリスト教の信者ではないが、聖書の有名な箇所ぐらい知っていてもおかしくはない。
「―だから言葉が届かないところっていうのは『闇』なのよね。そういう『闇』っていうのは、そこに何かあるんだとしても、もういい悪いじゃないのよね。何もないのと限りなく同じなのよね。」
​P77​
 ぼくは、このとき真紀さんの言ったことは、真紀さんがその場で考えたことではないはずだと思った。こんなこと即席で考えられるはずがない。これはイルカについてのことではなくて、真紀さん自身のことなのだろうと思ったけれどぼくは黙っていた。
「静かね」真紀さんは言った。
「洋平が一度あらわれて、消えてみると静かさが、こう、這い上がってくるようだ」
「気になる?(ぼくはあいまいに頷いた)
 二人でいるからね。
 一人だといいわよ。この静けさにずっとつづいてほしいと思うわよ。
 でも、洋平もルミも前ぶれなしに帰ってきちゃうのよね」
 自分の家なんだから当然だとぼくは笑った。
「そうなのよ
 おかしなところよね。家って。
 自分でもずっとそうしてたわけだけど、出ていくときはまあ、いちおう 『行ってきます』って言うけど、帰ってくるときはフッて帰ってくるからね。
 で、しまいには大きくなって平気で家をあけるようになってるのよね」
 ぼくは少し悲しいような気がした。真紀さんの口を借りて普遍的な母親がしゃべったような気がしたからだ。普遍的な母親というのはぼく自身の母親と言い換えてもいいのだろう。
​ 作品の終盤の光景です。引用していると楽しいのですが、引用をお読みになっても、ここがクライマックスだとぼくが思ったことは伝わらないでしょうね。
 この作品が芥川賞を受賞した際に、選考委員だった作家たちの感想から、三人の感想を引用します。
日野啓三
 「他の都合もあって合計四回読んだが、読む度に快かった。(引用者中略)いまこの頃、私が呼吸しているまわりの空気(あるいは気配)と、自然に馴染む。こういう作品は珍しい。」
 「バブルの崩壊、阪神大震災とオウム・サリン事件のあとに、われわれが気がついたのはとくに意味もないこの一日の静かな光ではないだろうか。」
 「その意味で、この小説は新しい文学のひとつの(唯一のではない)可能性をそっと差し出したものと思う。」


黒井千次
 「他人の既成の家庭を覗き込むという形で書かれているために、語りのしなやかさと人物の主婦像とがくっきり浮かびあがり、三十八歳の女性の精神生活の姿が過不足なく出現した。」
 「女主人公の精神的な自立と自足とが、どこまで確かであるかは必ずしも定かではない。しかしもし危機が訪れるとしても、それがいかなる土壌の上に発生するかを確認しておく作業も等閑には出来まい。その意味でも、この一編は貴重な試みであると感じた。」


古井由吉
 「今の世の神経の屈曲が行き着いたひとつの末のような、妙にやわらいだ表現の巧みさを見せた。」
 「三年後に、これを読んだら、どうだろうか。前提からして受け容れられなくなっている、おそれもある。」
​ ​​ぼくが、今回、この小説を読み直したのは、古井由吉の評を「書く、読む、生きる」(草思社)で見かけたからです。​​
​「三年後に、これを読んだら、どうだろうか。」​
​​ という問いに促されて、25年後に読みなおしました。ぼくには古井由吉がここで言っている「前提」の意味がよく分からないのですが、とりあえず、この作品が発表された1995年の今、ここ。この作品が描かれている時代の「生(なま)の社会」。あるいは、こういう会話をする30代後半の男女が存在しうる場だと考えてみると、それはもうないのかもしれません。​​
​​ ぼくは、今から25年前に、同時代の同世代の登場人物を描いている作品として「リアル」に読みました。今、これを、当時のぼくと同じように「リアル」と感じる30代の読者がいるとは思いません。しかし、25年ぶりに読み直して思うのですが、この小説はそんなことを書いているのでしょうか。​​
 ​「言葉が届かないところっていうのは『闇』なのよね。」​
​ という真紀さんの言葉が指し示している『闇』のリアルは、果たして25年の歳月で古びたのでしょうか。​
​​​ その真紀さんが、数年間の「主婦」の生活でたどり着いた「普遍的な母」「識閾」の哀しさは古びたのでしょうか。​​​
​​ 保坂和志は、その後、「ネコのいる世界」を描きながら言葉の届かない「闇」に言葉の触手を届けようとしつづけているように思いますが、それは、古井由吉が言葉の底にある「記憶」「言葉」で紡ぎ続けているように見えた晩年の作品に、どこか共通すると感じるのは、読み損じでしょうか。​​
​​​ 保坂和志は実に静かに、「新しい文学の可能性」を追い続けているのではないでしょうか。



​​

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最終更新日  2023.10.26 23:07:23
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