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テーマ:本日の1冊(3697)
カテゴリ:読書フィクション(12~)
「オジいサン」京極夏彦 中央公論社 72歳、独り身、子供なし、現在は無職、公団住宅に住む年金暮らしの益子徳一の心のうちを、ほぼ徳一の呟きだけで作られた一冊である。京極夏彦にとっては稀覯作なのではないか?一章目の題目は「七十二年六箇月と一日 午前五時四十七分〜六時三十五分」という体(てい)で付けられており、ご丁寧にも見開きの毎頁左下には5時47分を示したアナログ時計の絵と共に「七十二年六箇月と一日」と記されている。 ‥‥そうなのだ。益子徳一はアナログ人間で、2009年現在、地デジのせいで、田中電気の先代から買ったテレビが「見えなくなる」ことにどうしてもガッテンがいかない。いや、頑固な老人なわけではなく、得心がいかないことに従いたくないだけなのだと徳一は思っているのだが、どうもそれが「頑固だ」という事を理解していない老人なのである。徳一は几帳面な男だ。目が覚めたとき几帳面にも枕のカバー代わりの手拭いを替えたのはいつか、想いを馳せてしまう。ついでに加齢臭について呟き‥‥。そもそも何故そんなことを枕元で考え始めたかというと、自分が「オジいサン」と呼ばれた日がいつか、つい考え始めたからである。想いは次々と代わり、一分以内にはおそらく二つ以上のことをつらつら考えていたはずだ。 ‥‥いや、認知症というわけではない。その証拠に一つひとつ記憶を辿っていけば、ほら思い出した。四日前の水曜日だ。そこまで思い出したのが六時五分。目が覚めてから十八分。 ‥‥長い。一分が長い。一時間が長い。それなのに一日は短い。すぐに陽が暮れる。一年はあっという間に過ぎ去ってしまうというのに、四日前の出来事がまるで何年も前のことのようである。昔のことはよく思い出せるのに。近くが霞み、遠くが明瞭なのだ。 ‥‥やはり益子徳一、認知症一歩手前か‥‥ という感じで、一冊延々と綴ったのが本書である。これを書いた時、京極夏彦46歳。まるで自分の体験を書いているかのようではあるが、これは紛う事なき「創作」なのである。いつものように装丁の組版も京極夏彦が担当し、フォントの大きさから、ページの最終行にどの文句がくるかまで、綿密に「計算」して文章を作っている。それに乗って、私も若いのにまんまと自らが老人になったような気分になって‥‥、いやその割にはあまりにも既視感ありありではないか。徳一と私と似たようなところが次々と出てくる‥‥、いやいや、未だ私は地デジの何たるかは知っていたぞ、いやあれはもう十二年前だから当たり前か、そうではなくて、ホラ、スマホをプラスチックケースの箱だという徳一を諭すことができるし、カセットテープは燃やせるゴミだということも検索して直ぐにわかったぞ、まぁ時代が12年もあとなんだからそんなに威張れないか‥‥、いや‥‥、いやいや、いかん、私も枕元で既に一時間近くこんなことを書いてるぞ‥‥ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年11月02日 13時34分45秒
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