カテゴリ:読書
この本は2002年4月に発行されました。
ジミーとは、戦後の一時期に、学習院の英語の教師によりつけられた明仁皇太子(今上天皇のこと)の名前です。 その教師はヴァイニング夫人で、英語の授業中、生徒全員に英語の名前をつけていたとのこと。 当時の明仁皇太子の年齢は13歳でした。 英語を学ぶのは当然ながら戦後のことで、ヴァイニング夫人は昭和21年10月から25年12月まで日本に滞在されました。 そして、平成11年に97歳でアメリカにて逝去されたとのことです。 今上天皇は、平成元年8月4日に即位後初の記者会見をされました。 その席では、改めて日本国憲法を守ると宣言し、国民とともに歩むことを約束されました。 先頃のサイパン訪問から想像すると、今でもそのお気持ちには変わりがないように思います。 以下は【この本からの引用】と【征野の感想】です。 【この本からの引用】 そこで、7月に入ると、気候の温暖な沼津から、日光に再疎開することになった。 (中略) 皇太子も同級生と一緒に粗末な食事を摂った。 授業は東大日光植物園の建物を教室のかわりに使って行なわれた。 後にあまりに寒さが厳しくなると、電気ストーブのある御用邸の日本間で授業をする日もあった。 【征野の感想】 今上天皇にとってのサイパンとは、どのようなものだったのでしょうか。 それをちょっと考えてみたいと思います。 1944年(昭和19年)の明仁皇太子は11歳でしたが、まず3月13日に三里塚・皇室御料牧場に一時疎開、5月15日に静岡・沼津御用邸に疎開されました。 6月15日に米軍がサイパン島に上陸すると、7月10日に日光・田母沢御用邸に再疎開されました。 つまり、米軍のサイパン上陸により、沼津が空襲されるおそれが出てきたがため、安全な日光に再疎開されたのです。 11歳の明仁皇太子にとって、数ヶ月で住む場所を移動する生活、親元と離れる生活は、かなり辛いものであったと思われます。 当然ながら、戦争について考えざるをえない訳で、その体験は即位後の記者会見にも反映していると思われます。 【この本からの引用】 ヴァイニング夫人は満足だったが、もっと満足したのはマッカーサー本人だった。 なにしろ日本の皇太子が、ついこの間まで敵国だったアメリカの言語を、かなりのレベルで話し、しかもそのマナーは完璧である。 これ以上、はっきりとした占領政策の成功を示す例はなかなかないだろう。 帰宅したヴァイニング夫人のところへ、すぐにマッカーサーの側近から電話があった。 「殿下は物の見事に元帥の試験にパスされたようです。元帥は部屋から出て来るとすぐ、殿下から実によい印象を受けた、殿下は落ち着いて、まことに魅力的なお方だった、と言っていましたよ」。 【征野の感想】 これは、1949年(昭和24年)6月27日に、ヴァイニング夫人につれられて明仁皇太子が、マッカーサー元帥を訪問したときのことです。 当時の明仁皇太子は16歳で、マッカーサー元帥と会うのは初めてでした。 この前年の1948年(昭和23年)12月23日は明仁皇太子の15歳の誕生日でしたが、同日にA級戦犯の死刑が執行されました。 その日から半年後にマッカーサー元帥と初対面したのですが、明仁皇太子のお気持ちがどのようなものであったかを想像するのは難しいです。 この本にも書かれていますが、マッカーサー元帥は皇室の次の世代をになう若者が、その資質を備えているのかどうかを、気にしていたようです。 明仁皇太子のこの資質を、この本では「優れた資質」と書かれています。 ともあれ、この訪問はマッカーサー元帥を満足させるもので、良かったと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005/07/16 08:31:49 PM
コメント(0) | コメントを書く
[読書] カテゴリの最新記事
|
|