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テーマ:本日の1冊(3684)
カテゴリ:ハングル、ハングル
朝日新聞でアジアネットワーク「越境する文化」チームが執筆する「時空をこえて」という連載が始まった。一回目は日中韓で紋切り型の歴史表現を超えよう、という取り組みを紹介している。中国で「心優しい」日本軍人を主役級に据えたTVドラマ「記憶の証明」。平田オリザ氏が韓国の人たちと共同執筆・演出した「その河をこえて、五月」。ここではお互い悪口を言い、笑いあう場面があるという。満州を扱った「虹色のトロツキー」、近代朝鮮を扱った「王道の狗」等、意欲作を次々と出す安彦良和氏にも取材している。そういうものがあるのだよ、ということだけを今日は紹介したい。作品の批評は実際に私が見たり、読んだりした後にしたいと思う。
最近私が実際に読んだ本に「歴史認識を乗り越える」(小倉紀蔵著 講談社現代新書)がある。この本は読み応えがあった。いろんな刺激をいただいた。しかし結論を先に言えば、哲学的言語で政治や社会を語るのはいいのだが、言葉の厳密性を感じないため、残念ながら説得力を持たなかった。 ならどうしてそんな本を長文で紹介するのかというと、ところどころ「ハッ」とするような指摘があり、考えるヒントになると思ったから。特に右派も左派も「主体性」が問題であるという指摘は考察に値する。少し詳しく述べる。 現在、日本人と韓国人は、対等な関係でものを語ることが可能か。否、と小倉は言う。一般的に言って、日本人よりむしろ韓国人のほうが「歴史観の土俵」においては、力関係で<上位>にいる。ところが(左派の)日本人は、韓国人による日本人蔑視を過去の反省もあり、ゆるす。このとき日本は現実には何の位階秩序の変更もないまま仮想的精神的な<上位>に立つ。ニーチェはこのようなあり方をはき捨てるように「奴隷道徳」といったそうだ。 歴史認識を前進させるためには、自らの歴史認識に<主体的>な韓国や中国に対して、歴史を認識する<主体>としての「日本人」を立ち上げなくてはならないのに、それが立ち上がらない。他方でそれを性急かつ排他的に立ち上げようとする(右派の)運動勢力が存在する。そして無用の対立が繰り返される。 ーーここまでは良かった。私は、ソウルの安重根記念館に行ったとき、パゴダ公園に行ったとき、国立独立記念館に行ったとき、いつも感じたのは韓国国民の強烈なナショナリズムだった。日本の軍国主義を糾弾するという意味では韓国内では右派左派の違いはない。一方、長崎原爆資料館には浦上天主堂の<祈り>がある。日本は原爆を落とした米国さえもゆるす、いわんや韓国をや。それを「奴隷道徳」というべきかどうかはまた議論があると思うが、日本と韓国との関係を相対的に言えば、韓国、日本の左派と右派、三者の間で<主体性>を巡り堂々巡りをしていると私も思う。 しかし主体的な日本人をどう立ち上げるか、という点でこの本は一挙に説得力をなくす。今までの哲学的言語から急に浮遊して突然現れる「第三の道」を示している。「自由と民主主義」を基盤とした「謝罪し国際貢献する日本」。言葉自体はいいのだか、最も重要な部分にかかわらず、今まで流れから浮いているのである。 磐井の乱を起こした人物の古墳 結局主体的な日本人はわれわれが<主体的>に作っていくしかないということだろうか。私の「九州平和と古代をを訪ねる旅」も実はそういう問題意識から発しているのではある。ただし問題意識のほうはまだ終わりが見えない旅なのではあるが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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