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カテゴリ:考古学
現説(遺跡現地説明会)にいってきました。場所は、永瀬清子の故郷熊山駅の近く、不思議なピラミッド遺跡のある熊山遺跡の北側、赤磐市の辺谷・成ル遺跡です。すぐ北側を吉井川(一級河川)が流れていて、南から注ぐ和田川が作り出した谷底平野の出口あたりの比較的平坦なところに立地しています。
弥生から江戸時代にかけての複合遺跡というので、弥生に興味がある私は散漫な遺跡だろうなとあまり期待はしていなかったのです。処が、中心は弥生時代、しかも古墳時代の製鉄関係もかぶっているという、私にとっては非常に興味深い現説になりました。 先ず驚いたのは、6世紀後半の住居のカマドから「フイゴの羽口」が出土していたという事。製鉄か、鍛治職人であった可能性がある。もし製鉄ならば、日本一古い製鉄遺跡(千引カナクロ谷遺跡)と同年代である。実は、谷の西側の山で辺谷製鉄遺跡という7世紀前半の製鉄遺跡が見つかっている。そうなると、総社が製鉄の最新地域だったと思っていたが、吉備の国で6世紀に入った途端に一斉に製鉄が始まったということになるかもしれない。或いは、カナクロ谷で製鉄が成功し数十年の内に一挙に吉備国全体に広げたか。それは金官伽耶の滅亡と関係しているのか。想像は膨らみます。 この辺りの住居跡は焼失した跡です。弥生後期の住居が五つ見つかっている。他には、弥生後期の土坑がまとまって出土していた。丸く無く角の取れた四角である処が「後期」なのだそうだ。 興味深いのは、弥生中期(一世紀あたり?)の木管墓が出ていたという事。簡便な板だったらしい。(写真では分りにくいが、少し色が変わっているところが板のあった跡らしい) 身長は130センチくらい。小学生くらいだったのではないかとの説明です。腰のあたりに石の矢じりが16個もまとめて出たらしい。これは岡山県では四例目。直ぐに思い出したのは、真備の清水谷遺跡で胸の辺りに矢じりが出土し、身体全体に矢じりを打ち込んで埋葬されたのではないかと言われている例。しかし、こちらは量が一カ所に纏まりすぎているので、その可能性は薄い。枝は付いていない。墓が閉まらないからである。もしかしたら、男の子で勇者だったけど、事故で亡くなり、お母さんが悲しんで生前に仕留めた獲物(小さいので戦争用ではないと私は思う)の数だけ矢じりをいれたのかもしれない。(と、説明している人に言ったら「わかりません」と興味無いという返事。分かるけど、もっとロマンを持とうよ) 弥生時代、田んぼ面積も小さくおそらく小さな集落に過ぎなかったこの村は、交通の便と背後に控える豊富な森林、そしてなんらかの人材を得て(朝鮮系土器は出土していない、朝鮮系地名もなし)、急に製鉄集団になって行ったのだろう。川上の月の輪古墳との関係も興味深い。(と、私は思う) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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