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テーマ:本日の1冊(3685)
カテゴリ:読書(ノンフィクション12~)
「月と蛇と縄文人 シンボリズムとレトリックで読み解く神話的世界観」大島直行 寿郎社 この本のカバーに使われているのは、廣戸絵美氏の油絵「妊婦」である。科学的な認識に基づいた写実絵画であり、作者の思想性さえ込められている。一方その下には国宝土偶の「縄文のヴィーナス」がある。これは、科学的な認識どころか思想性さえない。もっぱら「誇張」というレトリックの手法を全面に出して作られている。しかし、大きな意味があり、それが縄文時代全てにおいて貫かれているのだと、著者はいう。フロイトの心理学、ネリー・ナウマンの象徴研究に学んだ著者は、縄文人のものつくりの原理には必ず性と再生がつきまとうという。この土偶には、雨やせい液を「月の水」になぞらえ、それを集める容器としての「隠喩」があるという。また、縄文も蛇を模した。脱皮や冬眠が不死や再生のシンボルとなりうるという。また、女性が身籠るための水(せい液)を月から運ぶと考えられていたらしい。かくして、土器の尖底も月に、異形土器も子宮、蛇、蛙に、土偶のワキの甘さは闇を避けるため、幼子の姿を模して勾玉に、緑の生命力をシンボライズしてヒスイへ、貝殻と女性生殖器との類似、等々と全ては「性と再生」に集約化しているという。 認知考古学とは一線を画している。無意識的な思考までを学問の対象にしていないからだ。この辺りの判断は、私には出来ない。 ふたつの疑問がある。 一つは、石鏃の形から家の形まで、全ての遺物を性と再生で説明しようとしているが、人類の生産や生きがいとは、それだけに支配されるものだろうか。しかも、この方法は「そうだ」とも「そうでない」とも証明する手段がないのではないか?つまり言ったもん勝ちなのではないか? 一つは、月の水がせい液になるのだとしたら、縄文人は明確にせい液と妊娠との因果関係を把握していたということになる。長い間、古代人は母系社会であると言われて来た。それは、その因果関係に気がついていなかったからだと私は理解していたのだが、違うのだろうか? これらの伝統文化は多くは弥生文化にも引き継がれたと著者は言う。そうだとしたら、弥生文化によく出てくる龍は、蛇の進化形だと見ることも出来るだろう。龍が「王」の証しなのは、そこに物語があるからなのかもしれない。 全体的に著者の主張は、話半分としてのみ読めた。私は学者ではないので、こういう「解釈」は、それはそれで面白い。 2014年5月18日 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年05月23日 18時44分26秒
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