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カテゴリ:読書フィクション(12~)
「るきさん」高野文子 ちくま文庫 昨年の秋に、映画開始までの時間潰しのために買った本です。セレクト基準は安いこと、何処から読んで何処で止めてもいいこと、価値のあるもの、過去買おうとして何度か止めたもの。それから4ヶ月。やっと読み終わりました。 高野文子は約40年前「黄色い本」で衝撃を受け「絶対安全剃刀」でファンになりました。その後、「棒がいっぽん」で距離を置き、「ドミトリーともきんす」でやはり凄いと再確認しました。で、長い間未読の本書を手に取ろうかどうかと逡巡していたわけです。毎回作品ごとに「画の文体」を変える作者ではありますが、ずっと共通なのは2点あります。 ひとつは、絵が圧倒的に上手いこと。マンガはあくまで「本」として評価するべきだとは思います。高野文子にとってもそうです。それでも、一本一本の線の説得力は多くの(私を含む)漫画家志望を絶望させるに充分だったと思います。 ひとつは、普通と言われる価値観を軽々とひょいと越えること。激動の89年には13作も「るきさん」を描いています。1月には天皇が亡くなり、6月には天安門事件が起こり、10月にはベルリンの壁が崩れた、あの年です。このアラサーOL日記ともいえる世評マンガに、それらの大事件はとうとう1ミリたりとも陰を落としませんでした。しかも、あろうことか、自粛風が吹き荒れていた2月号4p拡大版では、るきさんとえっちゃんコンビはおせちや年賀状などの話題に終始し「まぁ今年もよろしく」と去ってゆく男友たちに挨拶をするのです。11月には区立図書館の児童書コーナーでナンパするその男友だちと、その談話室で焼きそばパンとファンタを飲む女(るきさん)も描いています。この貧乏くささは世の中バブリーな空気満々な頃のマンガとは思えません(しかも掲載誌は「Hanako」)。 このマイペースなるきさんの日常が、30年後の現代読んでいて少しも不自然じゃない。普遍性がある。むしろ、新しい自立した女性像のような気がするから不思議です。 どのように「普遍性」があるか? 友だちえっちゃんの呟きだけで構成されているこの一作を紹介すれば分かるかな。 「るきさんは電車に乗るとき」「よくドアにはさまる」「あんまりたっぷりはさまれるので、まわりのほうがびっくりする」「踏切では」「降りてくる、降りてくる、降りてくると思いながら」「頭で受けるので」「やっぱりみんな驚く」「運動神経の問題だということは居合わせていればすぐにわかるが」「わからないのはこの直後の冷ややかさだ『だいじょうぶ、だいじょうぶ』」「痛くないわけじゃない、アザものこるし、コブものこる」「なぜですか?『子供のころからしょっちゅうだったから慣れちゃったのかなって思います、だいたい外出ってそういうもんだと思ってましたしね』」「るきさんが言うには『きゃーん、いったーい』」「『うぇ〜ん、やだぁ』ときたまこういう人を見かけますが」「『はずかしーっ』あれはめったにころんだことのない人なんです、との説である」 あるある! るきさんの説は説得力がある。 えっ?るきさんの方がおかしい?そうかなぁ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年01月08日 11時59分05秒
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