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カテゴリ:考古学
しばらく書く記事が教育基本法一色になっていたので、ちょっとほかの記事を書きます。というか、そもそも私のブログのメインは映画評、書評、旅、そしてこの考古学なんです。きっと。
岡山で三番目の環濠遺跡が発見された。それは大変だ、ということで岡山市埋蔵文化センターの発掘調査スライド上映会に行ってきました。 なぜ大変か。一定の住居を水路や溝で取り囲む環濠というのは弥生時代特有の遺跡です。一般的に争乱に対する防御的な施設であるといわれています。ところで私は、弥生時代から古墳時代に移るときに日本大陸の指導者たちは、中国や朝鮮の大陸の人たちと違い、『戦争を起こさず平和的に連合国家を作った』という仮説を立てています。(連合国家説は多くの歴史家が言及しているが、戦争を起こさなかったと断じている歴史家はほとんどいない。)私はその指導者集団の中心に吉備の国があったと思っているのですが、その吉備の国から環濠遺跡が出てくると、私の説が覆されるかもしれないと思ったわけです。 結果で言うと、『大丈夫』でした\(^o^)/ この遺跡の場所は、岡山市国体町、南方遺跡です。済生会病院の建替え整備に伴う発掘でした。環濠はここで三重にわたって円心状に掘られていました。(発掘は一部分のみ)時代は弥生時代前期(約2400年前)です。弥生中期になるとこの溝は埋め立てられます。つまり西日本に倭国大乱がおきた卑弥呼の前の時代、この環濠は跡形もなかったというわけです。 つまり、前に百間川遺跡の環濠について聞いたときと同じような遺跡だったわけです。直径は60m~100m。環濠の中にも外に住居があり、必ずしも防御施設かどうかははっきりしない。武器は出土しています。大きさは『動物も殺せるし、人も殺せる』という代物です。 確かに人間は絶対に人を殺さない生き物ではありません。弥生時代前期には村と村のいさかいぐらいはあっただろうし、その時に人も死んだかもしれない。ただし未だに西日本つまり倭国統一過程で、大規模集団同士の争いがあったという証拠は出てきていないのです。私はかえって自分の説に自信を持ったものでした。 その他、平安時代から続く鹿田の荘園の跡を示す大供本町遺跡、真っ赤な朱に染まった人骨が出土した南坂16号墳の説明などがありました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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