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カテゴリ:考古学
近藤教授の「発掘50年」に三輪山の古墳のことが触れてあった。幾つか確かめたいことが出来たので、春日の先日、吉備の国の総社市の街中にある小高い山の上に登ってみた。
ただ、単に登っただけだけど、以前には見えなかったことが見えてきた。事件刑事は「現場百回」という。考古学もそうなのかもしれない。 ここに宮山墳墓群がある。築造は1700年前。これを最古級の(箸墓古墳と同時期)の前方後円墳と見るか、弥生晩期の墳丘墓と見るか、実は学会の中でもまだ意見が分かれているという。だから私自身は以下のような可能性があるとずっと思っていた。 線で囲ったのが三輪山で、矢印先が宮山墳墓。この山には古墳がこれほどにもたくさん集中している。 奈良桜井市の卑弥呼の墓と噂される箸墓古墳、その古墳を見下ろすように東側にお盆を伏せたような形のいい山がある。三輪山という。この山は古墳時代に先立って聖なる山として祭られていたという。しかし不思議なことにこの山には弥生墳丘墓が無い。(その代わり朱が出る)聖なる山といいながら、聖なる山に「昇格」したのは、実は、前方後円墳時代が始まるホノケ山、箸墓古墳と同時期なのではないか、と「くま説」として唱えていたものだ。そのとき、「三輪」の名前をどこから持ってきたのか。もう一方で、箸墓古墳からは吉備が起源の特殊器台、しかもこの宮山古墳と同時期の「宮山型」特殊器台が出土している。つまり箸墓古墳を作ったり、三輪山を神聖視した主体は、この総社市に住んでいた三輪山一族なのではないか。というのが私の説であった。(それを保障する大和政権東遷説は多くの考古学者が唱えてはいる) 今回改めてこの山に登ってみてみると、一番重要な宮山墳墓は連なる小山の一角にあり、桜井市の三輪山とあまりにも形状が違う。いわゆるカムナビ山(聖なる山の形の典型)では無いのである。名前をここから持ってきたというのは根拠が薄いのではないか、という気がしてきた。「三輪山」はむしろ「宮山」から来たのであって、それは全国的に使われる「聖なる」場所の呼び名である。二つの山が同じような名前だというのは確立の高い偶然だったのかもしれない。 窪んでいるのが墳墓の竪穴式石室のあと。板式の蓋だったらしい。 しかしこの宮山墳墓は面白い。それはこの墳墓(前方後円墳?)の周りからずっと西側の尾根伝いにづらっと庶民の墓が並んでいるのである。階級差ははっきりとあった。しかし、支配者と庶民との間が非常に近かった。このような墓の作り方は日本ではあと長野ぐらいにしか例がないという。私はむしろ、韓国1~3世紀の竪穴式墳墓のことを思い出していた。 この墓の埋葬者は三世紀の終わり、間違いなく日本列島の中の主役群像の一人だったろうに、今はほとんど誰も省みられることも無く、静かに眠っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年03月27日 00時15分15秒
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