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カテゴリ:08読書(ノンフィクション)
昨日か書き損ねた「12月8日」のことを書こうと思う。もちろん1941年12月8日のことである。
このまえ古本屋で珍しい本をゲットした。松田完一著「岡山の映画」(岡山文庫)。ほとんどの人は知らないが、1921年生まれのいわゆる生粋の映画ファンで、昭和の初期から裕福だった家の助けを借りて、幼少から映画を見てみてみまくった人で、映画グッズの蒐集家である。 その彼がこの日のことをこのように書いていた。 「その朝のことを、今も私ははっきりと覚えている。12月8日は、文化ニュース劇場で、アメリカ映画「スミス氏、羅府(ワシントン)に行く」が上映される筈だった。監督フランク・キャプラ、主演はジーン・アーサーとジェームス・スチュワートで(わが家の楽園)の名コンビ、東京大阪でも大評判で、岡山上映を待ち望んでいた。当時文化劇場では外国映画の一本立てを時に上映していた。その朝の号外で、米国に宣戦布告を知った国民の驚き、とうとうやったかと、一瞬何かもやもやしたものが吹っ切れた感じは誰しもであったが、わたしはものも言わずに家を飛び出した。近くの文化劇場に行く気になったのは、戦争は戦争、映画は映画といった気持もあったのは事実であった。劇場の入り口の広いガラス戸が粉々に割られ、横のウィンドーの窓ガラスも壊れ、スチールが破られて風に舞っていた。鬼畜アメリカの映画を上映する館に対するイヤガラセではなく、その向こうにある目に見えない敵国に対する憎しみの果てであろう。フィルムなどどうなっているのか、気がかりは館主ばかりでなく、ファンの一人としても気になるのであるが、中に入る勇気はなかった。アメリカはついに敵国になってしまったと思うと、うすら陽のなかを胸が高ぶってくるのであった。」 ごく普通の青年の感想は以上の通りであるが、しかし、この田舎の岡山でも「戦争の熱狂」はいち田舎の映画館のアメリカ映画のスチールさえ許せなくて窓ガラスまで割るものなのか、私自身は少しショックだった。 松田青年の映画の知識は凄いものがある。しかし宣戦布告の報を聞き、「何か吹っ切れたような気が」するのである。映画館が壊されたのは悲しいけれども、仕方ないものだというように考えもしていたのである。 昨日は67年前に戻ったかのようなインディアンサマーだった。天声人語(12.7)には加藤周一氏がこの日をどのように迎えたかを書いている。 〈周囲の世界が、にわかに、見たこともない風景に変わるのを感じた〉と心境をつづっている▼それは、住み慣れた世界と自分とをつなぐ糸が突然切れたような思いだった、という。高揚と無縁だったのは戦争の行く末が想像できたからでもあろう。帰って母親に先行きを聞かれ、「勝ち目はないですね」と吐き捨てるように答えたそうだ。 「高揚と無縁だったのは戦争の行く末が想像できたからでもあろう」何故それが可能だったのだろうか。 知識の問題ではない。教養の問題である。「教養の再生のために」(影書房)で加藤は以下のように語っている。 車を動かして遠くに行くにはテクノロジーと技術が必要ではあるが、その目的を決めるためには『教養』が必要なのです。教養の中からは『自由』と『想像力』を引き出すことが出来る。教養の再生が必要です。しかも新しい形で。 この「教養」はある時代までは加藤は「文学」だとも言っている。科学では価値観を変えることはできない。それが出来るのは、一部の宗教、あるいは文学だけだ、と。 松田青年は1945年6月29日、岡山空襲にであい、彼の家にあった多くのコレクションは灰塵に帰す。そして、はからずも2年前の12月7日、松田さんは火事でコレクションとともに焼死したのであった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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