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カテゴリ:韓国旅行(09~)
バスで国立博物館に行く。市内では四回ほど「どこに行くのか」とあたかも親切者らしく向こうから道を教えようとする人に出会った。みんなタクシーの勧誘である。さすが第一級の観光地。今までの旅でこんなにもひつこい勧誘は一度もなかった。全員丁寧にお断りする。国立慶州博物館は二度目だ。三つの館があって一番大きいのは考古館。ここで、金尺古墳群での疑問を質問するのが来館の目的である。 その前にNOフラッシュならば写真OKということなの で色々と見て回った。この製鉄の場面は鐘を鋳造しているので、後代の模型だろうがわかりやすくて興味深い。 新羅では紀元前57年(?)からAD300年に及ぶ350年間、木棺墓と木槨墓が採用されたらしい。木槨墓は二世紀中ごろから採用されている。鉄器を供えている墓が多い。 隍城洞(ファンソンドン)遺跡は単なる製鉄遺跡かと思っていたら、新石器時代の櫛文土器や石剣まで出ていて、かなり長い間慶州の中心遺跡だったことを知る(写真は隍城洞遺跡出土の新石器時代の櫛文土器)。実は慶州大学の助手さんから詳しい場所は教えてもらっていた(慶州市隍城洞ユリム小学校前のシンフンロイヤルアパート)のだが、純粋に今は跡形もないということだったので見物に行くのはやめたのである。しかし、それでも一度いってみる価値のある遺跡かもしれない。そこから見える山や川、そして空気を吸うということ。 さて、博物館のインフォメーションで質問をした。しかし、日本語ができる人がいなく、かつ学芸員ではなくガイドだったので、時間がかかったわりにはハッキリとわからなかった。一応答えてくれた質問は以下のとおり。 一、古墳に葺き石があった。一部ではなく古墳全体に敷いてものなのか。川原の石を持ってきたものなのか。 →古墳全体に葺き石をしている。川原から持ってきたらしい。 二、古墳の周りに土器は置いていないか。つまり、日本の埴輪に似た現象はないか。 →周りに土器は置いていない。 三、双円墳や双方向へ突起のある円墳、一方へ突起のある円噴は普遍的にあるのか →双円墳は夫婦のものである。そのほかの形のものは、後代に至り崩れたものだろうということ。(正確かは不明) 四、鉄鉱石はどこから取ってきたのか。前1cからか。この鉄の産地が大きく広がらなかったのはなぜか。 →ウルサン市の北側、タルチョンという処から鉄鉱石を持ってきたらしい。何故そんな遠くで見つかったのか。あるいはそれ以上の詳しいことは不明である。 ガイドの人はそれなりに一生懸命答えてくれたのではあるが、少し突っ込んだ質問はやはり大学研究者クラス或いは教授クラスでないと無理だということも判ってきた。日本の場合は、博物館の学芸員は研究者も多くいて、たいていは答えてくれる。考古学に関していえば、学問的水準は明らかに日本のほうが高い。と思う。日本の人たちがそれなりの報酬をもらっているかどうかは別問題である。 これは慶州龍江洞の文官土偶。6世紀。しかし、良く見ると明らかに西洋顔。シルクロードから流れてきた人である可能性が高い。 これは金庚信の墓から出てきたと伝えられている十二支像。 これは以前蔚山に行ったときに遠くて諦めた盤亀台の線刻画のレプリカ一部である。クジラ漁をしている。全世紀から新羅時代まで聖なる場所だった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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