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カテゴリ:読書フィクション(12~)
「新章 神様のカルテ」夏川草介 小学館文庫 「3」の続編である。栗原一止が信濃大学病院に移って2年が経っている。その間、娘の小春も生まれ、病院のチーム医療のリーダーらしくにもなっている。それは慣れたということではない。娘の股関節に異常が見つかる。患者が居るのに大学病院のベッド使用を上司が許可してくれない‥‥。 特に、第四内科の御家老、宇佐美准教授はパン屋と呼ばれ、「一個のパンがあり、10人の飢えた子どもがいる。さて君はどうするか」という譬え話が十八番である。第一話は大した問題にはならなかった。でも、これはその後キツイ選択を一止に求めるだろう。小説内の話ではない、これは優れてコロナ禍のもと現代の問題でもある。つまり「トリアージ」の話であり、この1月日本の何処かでも行われたかも知れず、昨年の欧米では頻繁に実施されただろう。 その予測は、変化球ながら当たらずと言えども遠からず、一止はパン屋と正面衝突する。あの有名な台詞の変化球が生まれる。 「私はパンの話をしているのではないのです。私は患者の話をしているのです」 さて、結果はどうなったか?黙してご覧じろ。 それはともかく、15年前、私は10時間もかけた膵癌手術に立ち会ったあとに、麻酔の副作用でたくさんの幽霊が見える父親に付き添い、大学病院の病室に1週間泊まったことがある。 その難しい手術を担当した若い医師は、今考えると栗原一止と同じ大学院生だったかもしれない。夜の8時に回診に来て、次の日の朝にちょっと見に来たこともある。ボサボサの髪をしていた。「いつ寝ているんだろか」と不思議に思ったことがある。こんな長時間のブラック労働、大変だけど高給取りなんだろうな、と思ったことがある。まさか、大学院生の給与が手取り16万円とは想像だにしていなかった。さらに言えば、病状が少し安定すると、30キロ離れた実家近くの病院に転院せよと言われた。救急車を使ってくれるかと思いきや、自分で行けという。その非常さに当時は恨みを感じたが、本書を読んでこれも大学病院の「ルール」だと悟った。せめて一止のような「患者に寄り添う丁寧な説明をしてくれる医師」だったらよかったのだが、一止がかなり「特別」或いは「変人」なのである。 膵癌は絶望的な癌である。本書の二木さんのように、ステージ4ともなれば尚更である。それなのに、ステージ4の前半だった我が父親は、その後3年も生きた。北条先生は言う。「言ったろ。大学ってのはすごい場所なんだって」今ではあの医師に感謝している。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年03月05日 10時54分25秒
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