谷川俊太郎「みみをすます」
中村稔「現代詩人論 下」(青土社)より 中村稔の「現代詩人論」(青土社)の下巻です。上巻もそうでしたが700ページを越える大著です。下巻では飯島耕一、清岡卓行、吉岡実、大岡信、谷川俊太郎、安藤元雄、高橋睦郎、吉増剛造、荒川洋治の9人の詩人が論じられています。
フーン、とか思いながら最初に開いたページが谷川俊太郎でした。 谷川俊太郎は多能・多芸の詩人である。「ことばあそび」の詩も書いているが、平仮名だけで書いた詩集「みみをすます」がある。一九八二年に刊行されている。これには表題作「みみをすます」の他、五編の詩が収められているが、私はやはり「みみをすます」に注目する。ただ、たぶん一五〇行はゆうに越す長編詩なので、全文を紹介することは到底できない。かいつまんでこの詩を読むことにする。
ここで論じられているのはこの詩集ですね。 本棚でほこりをかぶって立っていました。谷川俊太郎「耳を澄ます」(福音館書店)、チッチキ夫人の蔵書ですが、ボクも何度か読んだことのある懐かしい詩集です。箱入りです。箱から出すと表紙がこんな感じです。 わが家の愉快な仲間たちが小学生のころ、多分、教科書で出逢った詩です。今でも教科書に載っているのでしょうか。
子供向けのやさしい詩だと思っていましたが、今回読み直してみて、少し感想がかわりました。
まあ、それはともかくとして、中村稔はこう続けています。 まず短い第一節は次のとおりである。
みみをすます
きのうの
あまだれに
みみをすます
いかに耳を澄ましても、私たちは、昨日の雨だれの音を聞くことはできない。読者は不可能なことを強いられる。次々に不可能な行為を読者の耳に強制する。
みみをすます
しんでゆくきょうりゅうの
うめきに
みみをすます
かみなりにうたれ
もえあがるきの
さけびに
なりやまぬ
しおざいに
おともなく
ふりつもる
プランクトンに
みみをすます
なにがだれを
よんでいるのか
じぶんの
うぶごえに
みみをすます
恐竜の呻きを聞くことができるはずはもないし、燃える木の叫び、プランクトンの音、まして自分の産声を聞くことができるはずもない。「みみをすます」は全編、こうした、いかに耳を澄ましても聞くことができるはずもない音、声などに耳を澄ますのだ、という。作者は読者が空想の世界、想像の世界に遊ぶように誘っているのである。読者が空想、想像の世界に遊ぶ愉しさを知るように、この詩を読者に提示しているのである。たとえば、山林火災で樹木が燃え上がる時、燃える樹木が泣き叫んでいると思いやることは私たちにとって決して理解できないことではない。この感情を拡張し、深化し、豊かにする契機をこの詩は私たちに提示しているのである。
こうした試みによって、谷川俊太郎は現代詩に新しい世界をもたらしたのである。彼でなくてはできないことであった。(P269~P370)
ただ、ただ、ナルホド!
ですね。この詩が書かれた時代、つまり、1980年代の始めころから、当時、三十代だったボクたちの世代が、十代で出逢った戦後詩の世界に新しい風が吹き始めていたのですね。
この詩を学校の教科書で読んで大きくなった愉快な仲間たちも、もう、40代です。今でも教科書に載っているのか、いないのか、そこのところはわかりませんが、小学校や中学校の教員とかになろうとしている、若い人たちに、是非、手に取ってほしい、読んでほしい詩集!
ですね。
せっかくなので、谷川俊太郎の詩集にもどって中村稔が引用しきれなかった「みみをすます」全文を写してみたいと思います。
みみをすます
谷川俊太郎
みみをすます
きのうの
あまだれに
みみをすます
みみをすます
いつから
つづいてきたともしれぬ
ひとびとの
あしおとに
みみをすます
めをつむり
みみをすます
ハイヒールのこつこつ
ながぐつのどたどた
ぽっくりのぽくぽく
みみをすます
ほうばのからんころん
あみあげのざっくざっく
ぞうりのぺたぺた
みみをすます
わらぐつのさくさく
きぐつのことこと
モカシンのすたすた
わらじのてくてく
そうして
はだしのひたひた・・・・・
にまじる
へびのするする
このはのかさこそ
きえかかる
ひのくすぶり
くらやみのおくの
みみなり
みみをすます
しんでゆくきょうりゅうの
うめきに
みみをすます
かみなりにうたれ
もえあがるきの
さけびに
なりやまぬ
しおざいに
おともなく
ふりつもる
プランクトンに
みみをすます
なにがだれを
よんでいるのか
じぶんの
うぶごえに
みみをすます
そのよるの
みずおと
とびらのきしみ
ささやきと
わらいに
みみをすます
こだまする
おかあさんの
こもりうたに
おとうさんの
しんぞうのおとに
みみをすます
おじいさんの
とおいせき
おばあさんの
はたのひびき
たけやぶをわたるかぜと
そのかぜにのる
ああめんと
なんまいだ
しょうがっこうの
あしぶみおるがん
うみをわたってきた
みしらぬくにの
ふるいうたに
みみをすます
くさをかるおと
てつをうつおと
きをけずるおと
ふえをふくおと
にくのにえるおと
さけをつぐおと
とをたたくおと
ひとりごと
うったえるこえ
おしえるこえ
めいれいするこえ
こばむこえ
あざけるこえ
ねこなでごえ
ときのこえ
そして
おし
・・・・・・
みみをすます
うまのいななきと
ゆみのつるおと
やりがよろいを
つらぬくおと
みみもとにうなる
たまおと
ひきずられるくさり
ふりおろされるむち
ののしりと
のろい
くびつりだい
きのこぐも
つきることのない
あらそいの
かんだかい
ものおとにまじる
たかいびきと
やがて
すずめのさえずり
かわらぬあさの
しずけさに
みみをすます
(ひとつのおとに
ひとつのこえに
みみをすますことが
もうひとつのおとに
もうひとつのこえに
みみをふさぐことに
ならないように)
みみをすます
じゅうねんまえの
むすめの
すすりなきに
みみをすます
みみをすます
ひやくねんまえの
ひゃくしょうの
しゃっくりに
みみをすます
みみをすます
せんねんまえの
いざりの
いのりに
みみをすます
みみをすます
いちまんねんまえの
あかんぼの
あくびに
みみをすます
みみをすます
じゅうまんねんまえの
こじかのなきごえに
ひゃくまんねんまえの
しだのそよぎに
せんまんねんまえの
なだれに
いちおくねんまえの
ほしのささやきに
いっちょうねんまえの
うちゅうのとどろきに
みみをすます
みみをすます
みちばたの
いしころに
みみをすます
かすかにうなる
コンピュータに
みみをすます
くちごもる
となりのひとに
みみをすます
どこかでギターのつまびき
どこかでさらがわれる
どこかであいうえお
ざわめきのそこの
いまに
みみをすます
みみをすます
きょうへとながれこむ
あしたの
まだきこえない
おがわのせせらぎに
みみをすます
中村稔が言うとおり、結構、長い詩です。あのころと違った感想と上で書きましたが、今回読み直して、たとえば
しょうがっこうの
あしぶみおるがん
うみをわたってきた
みしらぬくにの
ふるいうたに
みみをすます
というあたりに、今の、ボクのこころは強く動くのですが、あのころには、その感じはあまりなかったわけで、この詩が「ひらがな」で書かれていることの意味というか、効果というか、が、子供に向けてということではなくて、ボクのような年齢になった人間の、まあ、年齢は関係ないのかもしれませんが、ある種の「記憶」は「ひらがな」である!
ということこそ、この詩の眼目だったんじゃないかという驚きですね。
詩人は「ひらがな」という方法の意味についてわかってこう書いているにちがいないのでしょうね。実感としてとしか言えませんが、「小学校の足踏みオルガン」ではなくて、「しょうがっこうのあしぶみおるがん」という表記が、老人の思い出を、記憶の底の方から揺さぶるのです。大したものですね(笑)。
追記
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