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カテゴリ:07読書(フィクション)
尾崎 放哉(おざき ほうさい、1885年- 1926年)の最新句集を読んだ。
「尾崎 放哉句集」(岩波文庫 池内紀編) 96年に、師匠の井泉水の物置小屋で発見された添削前の200種ばかりの句も、新たに選ばれている。 尾崎放哉(ウィキより) 1902年 - 鳥取県立第一中学校卒業 第一高等学校(一高)文科に入学 1909年 - 東京帝国大学法科大学政治学科を卒業 通信社に入社 1911年 - 東洋生命保険株式会社に就職 契約課に所属 1914年 - 東洋生命保険大阪支店次長として赴任 1915年 - 東京本社に帰任する「層雲」に寄稿 1921年 - 契約課課長を罷免される この年の暮れ頃東洋生命保険を退職する 1922年 - 新創設の朝鮮火災海上保険に支配人として朝鮮に赴任 1923年 - 「層雲」への寄稿を再開する 罷免される 満州に赴き再起を期すも肋膜炎悪化のため入院、手記「無量寿仏」を口述筆記する 一燈園へ 1924年3月 - 知恩院塔頭常称院の寺男となる 6月 - 知恩院塔頭常称院から須磨寺大師堂へ入る 1925年5月 - 福井県小浜常高寺の寺男となる 7月 - 常高寺を去る 8月 - 小豆島霊場第五十八番札所西光寺奥の院南郷庵に入る 1926年4月7日 - 南郷庵に死す 死因は癒着性肋膜炎湿性咽喉カタル 戒名大空放哉 居士 まさにエリートの挫折を絵に描いたような人生。酒を飲んで暴れたらしいが、何が彼をそうさせたのかは私は知らない。現代ならば、うつ病の治療をしながら、滅んでいくタイプだろうが、大正末期の彼は自由律の俳句を作りながら、最後の三年で文学史に残る俳人になる。 編者の池内紀より新たに知ったことが二つ。 ひとつは放哉の名の由来。彼は東京大学に入学した年、従妹の沢芳衛に結婚を申し込んだが、親類が医学的理由で反対する。放哉は「芳衛」への思慕を「放つ」意味から名付けたらしい。彼の「挫折」の大きなひとつだろう。 晩年放哉は、一日十句、半年で1800句を作り、そのまま井泉水に送っていた。井泉水は俳句の世界の約束事により、その中の数句を選び、ときには添削をして同人誌に載せた。その俳句が放哉の死後有名になったのである。けれども、添削は例えばこのように行われていたことが今回わかる。有名なこんな句がある。 口あけぬ蜆死んでいる これは元の句はこうである。 口あけぬ蜆淋しや つまり、抒情句がとたんに厳しい死の造型になったのである。 しかしこれは決して共作ではない、俳句世界の約束事からも放哉のオリジナル性は変わらないと池内は言う。 20年ほど前、私は小豆島南郷院を訪ねたことがある。小さな記念館として、死んだときのままその小さな庵は残されていた。 海が少し見える小さい窓一つもつ 今でも笠岡の神島などにも残っているし、全国的にもあるが、小豆島にも四国と同じように八十八ヶ所巡りの寺或いは庵があり、そのお遍路を待ってあがるわずかな収入で、少しの焼き米と焼き豆を食する生活。当然放哉は衰弱する。しかし彼はそのことを期待していたのである。「安定シテ死ヌ事ガ出来ル」 エリートの挫折。壊れた心はどのように死に近づいていくかを、ひとつの典型として放哉の句に読むことが出来るような気がする。 20年前、帰りのフェリーの中で涙が止まらなかった。放哉が哀れでならなかった。 わがからだ焚火にうらおもてあぶる 淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る ひげがのびた顔を火鉢の上にのつける ハンケチがまだ落ちて居る戻り道であつた 豆を煮つめる自分の一日だつた 鼠にジャガ芋を食べられ寝て居た 蚊帳のなか稲妻を感じ死ぬだけが残つている アノ婆さんがまだ生きて居たお盆の墓道 線香が折れる音も立てない わが肩につかまつて居る人に眼ががない 入れものが無い両手で受ける 机の足が一本短い 咳をしても一人 墓のうらに廻る カタリコトリ夜の風がは入つて居る お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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