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カテゴリ:考古学
昨日は休みだったので、散歩がてら真備町をぶらぶらしてきました。この地名はもちろん奈良時代に右大臣にまでなった吉備真備にちなんだ地名です。
真備町は吉備の国の中心地である総社市より高梁川をはさんで西にある小田川流域に位置します。 真備公園に車を止めて、その隣にある資料館に入って見ます。 吉備の真備は生涯二度遣唐使として、中国に渡りますが、その船の復元が展示されていました。 初めて吉備真備の生涯を見ました。 吉備真備(ウィキ参照)なんとも凄い波乱万丈の人生です。 命からがらの遣唐使二回もすごいですが、 750年藤原広嗣が反乱 左遷。 鑑真の招聘。 756年に新羅に対する防衛のため筑前に怡土城を築き、 764年(天平宝字8年)には造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京した。 そして恵美押勝(藤原仲麻呂)が反乱 80歳、政治家として死んでいる。 ほんとうに80歳まで生きたのだろうか。今なら十分ありえるが、昔は奇跡的だったのではないか。 どうしてこの時代、地方の豪族である吉備氏がここまで出世したのだろうか。 散歩してわかったことは、小田川の水の豊富さ、低い山々と豊かな平地、交通の便、近くに藤原遺跡があり鉄の産地だったこと、大和から来た王子の吉備武彦の子孫であったのでたぶん大和王朝の遠い子孫だったのだろう。裕福な土地だったのだ。結局吉備から見たら、侵略者の子孫なのではある。しかし、長い間に彼らは土地の人間になる。五世紀には、雄略天皇による弾圧があったことも知られている。 そして七世紀末から八世紀にかけて、一人の秀才を中央政治に送り込むことに成功したというわけだ。 資料館を見た後、箭田大塚古墳を見に行った。非常に大きい石室を持つ横穴式の円墳である。6世紀末から7世紀にかけての築造。吉備真備たちの一族(下道氏)の有力首長の墓だったのではないか。吉備真備を生み出す数代前の実力者だったのだろう。 そこから一キロも歩かないうちに、吉備真備が産湯を使ったという井戸があった。 吉備地方には、日本書紀とは、180度違う日本列島の政治史がある。2世紀から8世紀にかけて、アジア全体を巻き込んだ歴史がある。雄略天皇に対抗して新羅と組んだという噂もある。2-3世紀ころには、朝鮮半島南の鉄の産地と交流があり、そこから鉄の技術を盗んだというのが私の考えである。(すみません学術的でなくて)3世紀までの弥生時代に私は興味はあるのですが、それ以降の歴史にも最近は興味を持ち始めました。 地方から見える歴史がある。 私のライフワーク(立ち消えになる可能性も十分!!)のひとつです(^_^;) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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