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カテゴリ:加藤周一
小さな旅だけど、旅は気づきの連続である。
ちょっとした親切がうれしいo(^-^)o ホテル三番館では、出るとき思いがけない雪の天気に(おそらく客が忘れていった)ビニール傘を持たせてくれた。大泉学園駅前のカフェNOVELでは、一人用の机に着いたら「広いほうが落ち着くでしょう」ともう一つくっつけてくれた。「気遣い」が日本のサービスなのだとつくづく感じた。一方、韓国の場合はそういう親切は無いけれども、ヘルプを出すと徹底的に助けてくれる。旅人にとっては、どちらも嬉しいが、どちらかという韓国の方がいいかな。 上野毛駅で降りて加藤周一旧宅まで歩いていく。歩いて10分もないところにそれはあった。 予想に反して木造家屋ではなく、コンクリート制の2階建て。表札には「加藤・矢島」とある。これはイメージ通り。わりと大きな家であるが、驚いたことに二世帯住宅になっていた。2階に住んでいる人の名前は全く見当が付かない名前であった。でもよかった。矢島翠さんは一人暮らしになっていないことだけは確かだからである。庭はよく見えなかったけど、欅みたいな木が見えた。イギリスのガーデンのようではなかったが、緑があってほぼイメージ通り。これ以上うろうろしていると「不審者」になってしまうので退散した。幹線道路から約50メートルほど。閑静とは言えないかもしれないが、この落ち着いた住宅地であの膨大な評論の多くを書いたのだと思うと感慨深い。 前にも寄った喫茶店「ル・サフラン」でケーキセットを頼む。今月のケーキはキャラメルサレです。おかみさんに聞いた。 「加藤周一さんをご存知ですか」 「ええ!いつもここを利用してくださっていました。いつもミルフィーユを頼まれていたんですよ。寂しくなりました」 今日はミルフィーユは品切れだったらしいので食べることは出来なかったが、やっぱりここが行きつけの喫茶店だった。 ウィキよりミルフィーユの写真を拝借。やはりなんと言っても加藤周一の好みの菓子はその名を「ナポレオン・パイ」との愛称でも親しまれたフランスを代表するケーキだったのである。 その後駅前のワイン酒屋「ビンテージ」で若い御主人に同じ質問をしたらさすがに名前さえ知らなかった。 「30年前の著作にワインの話をしていたというがあったんです。ワインを置いてあるのはここしかないので」私は聞いた。 「うちは一年半くらい前に開店したんです。もう閉めたけどそれまでに酒屋はひかり屋というのがったみたいです」(モンテヤマサキさんの情報によると、酒屋はスリーエフに店替え、パン屋は駅前のローソンに変わったらしい) そうか!あのパン屋も酒屋も、もうないのか。でもわかってよかった。 本当はこのあと国立博物館に寄って国宝土偶展に行こうと思っていたがタイムアウト、帰路についた。満足のいく旅でした。 加藤周一さんは、2008年夏、「どうしても語り伝えたいことがある」と体調不良を 圧して話をされた。それはその年の死後ETV特集で放映され、文庫「私にとっての20世紀」に付記された。 私にとっての20世紀 最後の収録は上野毛のこの自宅でなされた。加藤さんの話は、新自由主義経済の破綻の先に、不安定な「生」を強いられている今日の若者たちが「異議申し立て」する可能性まで及んだ。最後の最後に、このように言っている。 この社会というのは変わらなきゃいけない。どう変わるのかは、誰にもわからないんだろうけど、しかし、ともかく変わる必要があるんですね。 (略) ただChangeと言って、それが一種のラウンドスラングみたいな効果を持ったのはどうしてなんだろうと考えないとね。ただ、言葉だけの問題じゃなくて、あれだけの反応を引き起こすことが出来るのは、それはやッぱりどこかで深い現実に触れているからですよね。それはただ口先だけの宣伝、単なる宣伝技術の問題だっていうんじゃないと思うな。やはりどこかでアメリカ人の感情の深いところに触ったんですよ。だから、なんだかわかんない。たぶんオバマも知らないだろうと思うけど‥‥‥。 最後の最後は繰り返しの言葉も多く、加藤さんらしい「切れ」はなかった。しかし「オバマも知らない」ところで「深い現実に触れている」というのは、その後の一年と少しのオバマの政治が(悪い意味で)証明した。加藤さんは最後の最後まで「鋭い」人であった。上野毛の加藤邸に続く道、霙に変わった小雪は生垣に静かな呟きを落としていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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