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カテゴリ:考古学
以前発掘説明会に参加した淡路島の垣内遺跡の鉄器の分析結果が出たというので読んでみた。
淡路・五斗長垣内遺跡:出土鉄製品、68点が弥生製 愛媛大教授分析 /兵庫 残念ながら、弥生時代の鉄ということだけが分かっただけで、どこの鉄鉱石で作ったか等はわかっていなかったようだ。日本の鉄鉱石を使ったということが出ないか、何処かで期待していたのであるが。 この遺跡は謎の遺跡だ。専門の鉄鍛冶集団が弥生後期に突如ここに起こり、まだまだこれから鉄が必要とされる古墳時代に入ったとたんにぷっつり消えている。私はひそかに纒向に対抗する秘密の武器供給基地であったかもしれないと思っている。それが、箸墓という前方後円墳体制が出来上がった時点で、潰されたかしたのだ。 しかし、あの説明会に参加して以降、わたしの弥生時代の鉄に対する知見は大きく広がった。 なんといっても、去年11月当時の鉄の先進地域の朝鮮半島の遺跡をめぐったことが大きい。そしてそのとき、慶尚大学の有名な教授(その後の情報では嶺南考古学会の会長らしい)の「技術だけが問題ではない。鉄鉱石が必要です」という知見を頂いたことで、弥生時代に鉄を作った可能性は大きく後退したが、その一方で、我々の想像以上に複雑な鉄を作るための苦労があることを知ったのである。 その後、翌年三月、岡山大学の松木教授の「製鉄を始めるよりも、輸入するほうが効率的だった」という知見でさらに、政治的経済的判断でわざと製鉄を採用しなかった可能性に気がつくことができた。 さらには、今年の夏に北九州を旅したことで、弥生時代の奴の国の全体像を知り、 奈良県桜井を旅したり、シンポジウムの記録を読むことで、ヤマト政権の成立に吉備の楯築の王が深く係わっていることに大きく確信を得たのである。 これらの知見は、私の場合、すべて論文という形(つまり学術的方向)には向かわない。すべては吉備の物語を紡ぐための「仕込み」なのである。(←十数年仕込ばかりして全然酒ができてないぞ) 弥生時代後期から古墳時代にかけて、日本列島の諸国をひとつにまとめようということを意識して成し遂げた人物が確かにいた。しかも、それは中国大陸や朝鮮半島で行われていた武力による支配とは正反対のやり方で。鉄や塩の分配や、祭祀という政治の仕組みの交流を通じて、何故か西日本一帯が一つになった。なぜ、この島国でそれが可能だったのか。地理的要因はもちろんある。しかし、やはり幾人かの傑出した人物がいたからであるというのが、わたしの結論だ。 その中心に、吉備の王がいた。 150年に楯築の墓を作ったとき、楽浪郡から大量の朱が送られる。松木教授の言うように、107年中国に使いを送ったのは楯築の王だったのかもしれない。それは偉大な王だった。けれども、それから40年間から60年にかけて倭国大乱が起きる。武力がすべてだ。そういう思想は大陸からやってきただろう。大陸の事情をすべて分かった上で、北九州、出雲、ヤマト、播磨の仲間たちと若いころに交流を持ち、鉄の交易権の独占を勝ち取る塩の一大産地だった吉備が大きな力を持つようになる。 これらを仕掛けたのは、もしかしたら女性だったかもしれない。 当時、孔子の思想は輸入されていないから、中国の封建思想は日本になかった。あるのは、男女の役割分担だけだ。女性のネットワークと、勘の鋭さでもって、情報を武器に日本をまとめたのかもしれない。 そんなことをつらつら思う夜長の秋でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年10月23日 10時14分22秒
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