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カテゴリ:考古学
現説(現場説明会)に行ってきました。場所は、緒現方洪庵や木下利玄の故郷足守の足守中学校裏手です。大森遺跡と言います。
縄文時代晩期中葉の土器が思いがけずたくさん出てきたので、わりと大きなムラが一時的に住んでいたことがわかりました。多分今回の大分の様な洪水で、ムラごと流されて放棄したのだろうということです。 何故分かったか。川辺にあるムラなのですが、川に流木がたくさん出てきたのです。また、弥生、平安時代の土器は出てくるが、量が少しなので、言わばアウトロー的な人物が住んでいただけだろうということです。そして、何よりも、河岸段丘が流路へ張り出した部分で、ポキンとと折れた石棒が一点出土したのです。 長さが38センチ。岡山県では、最も長い方になります(5センチとか13センチとか11例出土はしているようです。東北と違い西日本では少ないのです)。折れていなければ、全長70センチになっただろうとのことです。石棒の存在は、以下のことを物語ります。 (1)そういう精神活動が可能なほどに余裕のあるムラだった。 (2)精神的支柱が必要なほどに大きなムラだった。 (3)河岸にあることで水の祭祀を担っていた可能性がある。新聞報道では「 市教委によると、石棒は東日本では縄文中期以降に大型化し、集落の水くみ場にお守りとして祭られていた。水辺での発見例は県内初で、西日本でもほとんどないという。(略)「西日本でも水の恵を守るシンボルとして石棒を崇拝する信仰があった証明だ」と言います。 (4)洪水からムラを守れなったことで、石棒に全ての責任を被せ、折ったのだろう、そしてそのままムラは他に移ったのであろう。とのことです。 折れた片方は、見つかっていません。多分もう一方は男根の形をしていたはず。生のをみたことがないので、少し残念でした。 この当時鉄は当然ありませんから、石でこれを磨いたのでしょう。先ずは石斧でおおまかな形に削る。そして砥石で磨くのです(とのことでした)。手間はかかります。 鉄屑も見つかっていました。実は南へ山を一つ隔てると、最古の製鉄遺跡千引カナクロ谷があるのです。縄文時代からずっと途切れることなく、この周りいろんな処に人は住んでいたのでしょう。 この足守川流域は、弥生時代から大きなムラがたくさん栄えています。それがやがて弥生晩期に楯築に結実する。(→それが大和政権に飛躍する。)そういうルーツの一つを見た気がしました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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