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カテゴリ:加藤周一
「戦争責任の受けとめかた ドイツと日本」加藤周一著 編集・国民教育文化総合研究所 アドバンテージサーバー発行 加藤周一の戦争責任論については、「戦後世代の戦争責任」(かもがわ出版)などの普及版があるので、広く世に知られている。しかしそれより少し前に出版された本書は、現在では絶版となって手に取ることはなかった。初めて読んでみて、重なる所は当然多いがこちらはひとつひとつドイツと比較して、結果的かなり突っ込んだ議論になっている。 加藤の考え方は以下のものだ。聞いたことがあるかもしれないが、今こそ繰り返し主張しなければいけない時だと思う。 戦時下のさまざまな犯罪は、あるいは戦争自体は、日本の社会、文化が生み出したものです。(略)1945年以来、たしかに日本の歴史的社会的文化的条件は大いに変わりました。しかし、まったく変わったわけではない。問題は何が変わり、何が持続しているかということです。南京虐殺を生み出した社会的文化的条件からの離別、戦前の日本社会との断絶に、だれが努力しているか、だれがそうしようとしているか、ということです。それはいまの日本人全体の問題です。(略)残念ながら戦後の日本では、かつての日本の社会的文化的条件を 突き崩してゆこうとする実際的な作業や努力がない。少なくともそれはきわめて希薄です。そしてそのことにこそ、日本人全体の責任がある。(8p〜9p) 我々はいま、その責任のツケを払わなくてならない立場に立とうとしている。そんないまだからこそ、ここの議論の詳細に少し耳を傾けるべきだと思う。 ●ドイツでは「頽廃芸術展」や「大ドイツ展」などをしている。日本ではなぜ戦争を賛美した戦時中の絵画の展覧会が開かれないのか。なぜ「禁演落語大会」が開かれないのか。能の「蝉丸」、「大原御幸」も抹殺された。歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」の「せまじきものは宮仕え」が禁止された。 ●「なしくずし」に国外で戦線が拡大していくと同時に国内でも体制がファッショ化する。不思議なのは、80年から90年代にかけて言論や思想や政党の主張でも10年前あるいは5年前とまったく逆の言論や主張になって、それに対する弁明や転換の根拠が明示されなかった。しいてその根拠を探れば大勢がそう動いているから。かつては「時局」が使われた。いまは「現実」という言葉が使われている。(←現代にも当てはまる) ●個人としても、戦争犯罪(捕虜虐待や従軍慰安婦)になぜ加わったのか、拒否できなかったのか。そのことを深く考えてみる必要がある。戦後の日本国憲法や労働基準法でも、労働者の意思に反する労働の強制を禁じているのですが、「現実」はそうはなっていない。 ●日本人の手による戦争裁判はひとつもない。(←それから20年後の現代でも同様である) 2015年3月11日読了 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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