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カテゴリ:07読書(ノンフィクション)
「アリランの歌」より
ソウル鐘路駅の近くにタプコル公園という小さな公園がある。そこは1919年3.1独立運動の発祥の地らしく、独立宣言の石碑と園内周囲には12枚の石のレリーフがあり、独立宣言を出す民衆、日本の憲兵に取り押さえられるさま、突然現れるジャンヌダルクのような少女、その結末などが描かれている。私はこの公園に行ったことで3.1が韓国内で重要な日であったことを知ったのだが、一方ではこのレリーフの印象せいで独立運動を始めたけど、すぐに日本に弾圧されてソウルだけの小さな運動であったのだ、と勘違いしていた。この本を読むまでは。 そのとき、平壌郊外に住んでいた14歳のキム・サン少年は、その朝中学校の先生が教室で「この日朝鮮独立の宣言はなされた。朝鮮全土に平和的なでも行動が行われよう」と演説するのを聞き、「学生たちは叫び、歓喜の涙が頬を伝わった」と書く。実際平壌でもデモ行進は行われた。「何千というほかの学校の生徒や街の人々と隊伍を組み、歌いながらスローガンを叫びながら町中を行進した。」「何百万と言う朝鮮人が、3月1日には食を忘れたと思う。」そしてすぐに弾圧はやってくる。「通りでかたまって賛美歌や国家独立の歌をうたっているキリスト教徒の女たちを日本の兵隊が射撃するところを何度か見た。彼らは銃剣で襲い掛かりさえし、多くの負傷者が病院に運ばれて死んだ。」日本は30万を逮捕したが、死刑にはしなかったという。5万が懲役判決を受けたという。反日のためではなく、朝鮮独立のための運動なのだから、法律的に死刑には出来なかったのだ。「死刑は殺人の場合以外適用できないから、日本人は逮捕する代わりに民衆を街頭で殺した。--うまい手だ。」鎮圧期間のうちに七千近い朝鮮人が殺された。 キム・サンの言う数字は根拠のあるものだと思う。関東大震災で殺された朝鮮人の数字も確かめたが、現代の歴史で検証された韓国よりの歴史書の数字とほぼ同じなのである。つまりキム・サンは希望的観測や憶測で数字を述べているのではなく、きちんと検証された数字を頭の中に取り入れているということなのだ。実際日韓歴史共通教材の「日韓交流の歴史」(明石書店)を紐解くと憲兵隊の資料である朝鮮人死亡者500人と言う数字と「韓国独立運動の血史」(パクウンシク著)の7500人が併記されているが、キム・サン少年自身がソウルでなく平壌で殺人を目撃したとなると、とうてい500人と言う数字ではないぐらいは明らかである。 このひとつからも、日本からの朝鮮独立運動は全土的、平和的性格を持っていたことがわかるし、それを明治政府は明確に武力弾圧したのである。そして平和的行動が潰えたあとに伊藤博文へのテロがあったのである。キム・サン自身もこのあとのキリスト教徒の平和行動に疑問を投げかけている。「平等の地歩を求める平穏な訴えに対する日本の非妥協的な反応が、朝鮮の青年を凶暴な個人行動やテロリズムへは知らせる結果をもたらした。」 1919年の直後キム・サンは東京へ苦学をしに行く。「当時の東京は極東全体の学生のメッカであり、多種多彩な革命家たちの避難場所だった。自国にはいい大学がないし、日本の大学にはその頃は自由な雰囲気があり、戦後の知的興奮に満ちていた」と言う。もちろん戦後とは第一次大戦後という意味であろう。日本は大正デモクラシーの真っ最中だった。彼は日本の共産主義運動をこのように分析する。「中国では反植民地闘争が行なわれているために共産主義運動ですら民族主義的傾向が非常に強いが、日本の共産主義運動にはこの傾向が全くない。中国人がするように朝鮮人その他の外国の同志を差別することがなくて、実に国際的な気質を持っている。」私はこれは日本の共産主義運動の特質をよくつかんだものだと思う。 彼は半年ほど日本で勉強した後、革命に近いのはソビエトだと思い、出来るだけ近づこうと、満州に渡る。そのあと上海に渡ってマルクスやレーニンの著作を読み、クーデターやテロの無益さを理解し、「科学的大衆行動の重要さ」を理解する。彼は中国共産党に入党し、アジア的規模で革命を目指す。 このあと、死線をさまよう「広州コミューン」の立ち上げと壊滅、女性とのロマンス、投獄されたときの取調官との駆け引き、等々、下手なミステリ冒険小説では味わえない知的興奮があるのであるが、それは読んでからのお楽しみとさせてもらう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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