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カテゴリ:教師の勤務条件・その他海花センター蝋梅
「学ぶ事で疲労回復」、
これは、東京民研機関誌(TEL,03・3230.0841) 『子どもと生きる』(07・11月号)の小論のタイトルです。 その中に次のような文章がありました。 ・・・・・・・・・・ 「日々、自分の指導がこれでいいのか、 迷いもがいていいるなかで、 実践講座に行くと、毎回頭がすっきりします。 今回の奥田靖二先生の 『学ぶ事で疲労回復』と言うコトバに納得しました。 私も疲れたり落ち込んだりしている時こそ、 這って行って講座にに参加して、学習して 回復してきます。」 ・・・・・・・・・・ これは、今の教師の実態を表していると思います。 教師が、指導の目標を持ち、方針を持ち、指導法を身に付ける、 そこに計画的な教育活動があるのですが、 今、これを身に付けにくい状況になっているからです。 例えば、国語科の研究で、以前、学校の研究会に呼ばれて、そこの学校の先生と 文学教材の授業計画を立て、研究授業をする手伝いをした事がありました。 その時、もう、かなりの中堅の先生から、 「国語って、何を教えてたら良いのか、分からない。 だから、参観日では、授業をした事がないのよ。」 と言うのでした。 このようなことは、結構あるような気がします。 その大きな原因は、指導要領にあると思います。 今の指導要領、これは、 中教審の「詳細な読解に偏りがちである」答申のもとに作られ、 国語科の時間は、1学年分、減らされました。 * このような方針が出た、背景(三浦朱門氏の発言)を このブログの末尾に乗せておきます。 1学年分減ると言う事は、指導が、どれだけ、駆け足になるか。 その影響が、今、出ていて、子ども・教師・保護者が 、困っていると言えそうです。 軽度障害児の多くのブログでこの事が、 具体的に書かれていますが、 今の指導要領の影響をもろに、受けていると見ている今日(さん)です。 子どもができないと言ってこれを、嘆いていたり、 その事を報告したりしていただけでは、教師の責任は、 果たせないと思います。 その中でどのような指導をするか、それが、教育では、 問われるのですよね。 そのためには、指導要領が変わっても、それに対処できる 力を自分等が付ける、このことが、第一に、必要とされると思います。 では、国語科、これは何を教えるところか、 それは、「コトバの力」をつけつるところだと思います。 このとは、指導要領が、いくら変わっても、変わらないことだと思います。 この事を中心において、教科書・指導要領など見ていくと、 出された案・方針についての判断ができます。 例えば、『東京都世田谷区の小学校から論語の指導』 品川区の『小学生から常用漢字の指導』 など、このような事が、実際、できる状態か、考えさせられます。 それは、指導時間・発達段階などの面からもです。 以上のような国語科の目標・構造・指導計画・指導法などの参考に なる本を下記にご紹介しておきます。 『大久保 忠利著作選集 1・2』(三省堂)絶版ですが、アマゾンなどの 古書で売られています。 本日のブログ、ご賛同の方は、下のマークの応援クリックして下さると、うれしいです。 1日1回、有効です。 本日、お陰さまで、教育ブログランキング・5位になりました。 皆様に学ばせていただきながら、ここまで来ました。 ・・・・・・・・・・・・ 三浦朱門氏の発言・逸話(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) ペンネームの「朱門」は、母校である東京大学の赤門とキリスト教の聖人シモン・ペテロにちなんでいる。本名同じ。なお、朱門は古語で女性器を意味している。 2000年7月、ジャーナリストの斎藤貴男に、新自由主義的な発想から「ゆとり教育」の本旨は“100人に2~3人でもいい、必ずいる筈”のエリートを見つけ伸ばす為の「選民教育」である事を明言(「出来ん者は出来んままで結構、エリート以外は実直な精神だけ持っててくれればいい」「限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」「魚屋の息子が官僚になるようなことがあれば不幸になる」など)、物議を醸す。[1]教育課程審議会においてゆとり教育について「私は今まで数学が私の人生に役立ったことは無く、大多数の国民もそうだろう。」と発言。ゆとり教育を推進する当時の文部事務次官の意向に沿った発言を行ない、以後のゆとり教育を加速させた。彼らはその後の理科系大学生の著しい学力低下の責任を全く表明していない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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