獅子の時代 総集編 第五回「自由自治元年」
そうよ、人生は賭けよ。 車寅次郎 獅子の時代 総集編 第五回「自由自治元年」明治政府は北海道に巨大な監獄を作り、そこへ東京・小菅の監獄に収監されていた囚人たちを移す。厳しい気候風土の中、石狩川の奥地にある樺戸集治監は脱走不可能と言われていた。そこに銑次の姿があった。一方、嘉顕は北海道開拓使の書記官として赴任。そしておもんも銑次を追って小樽に辿り着いていた。連日のハードワークに思想犯の住田(日下武史)は十分な食事を与えるよう看守たち(小松方正・はっちゃくの父ちゃん)に訴える。銑次たちも食器や机を叩いて同調。しかし看守たちの怒りを買うだけ。ある日、千代のもとにかつて銑次とゲリラ戦を展開した金子が訪ねてくる。金子は斗南から会津に戻った玲と保子の面倒を見ていた。金子は保子(二代目松田優作夫人)を連れてきたのだ。十年ぶりの再会に千代は涙する。銑次も北海道にいるとも知らず。そして嘉顕も海産物問屋のおかみに納まっていた菊子と再会する。以前とは別人のように生き生きした姿に胸を撫で下ろす。そんなこんなでおもんは樺戸集治監に到着、銑次と面会を果たすが「誰に会いたいか知らねえがこんなとこに入った男は忘れろ。さっさと消えちまえ!」と言い捨てられる。おもんも「男欲しさにこんなところ来るほどいじらしくありませんよ」と口にするが帰り道号泣する。樺戸にいることで銑次を苦しめている。そして冬到来。住田はアジテーションを繰り返すが見せしめに殺害される。銑次が樺戸に収監されていることを知った嘉顕は毛布や食料を届けようとするが、千代は縁戚に犯罪者がいることで嘉顕の立場を心配する。そして春到来。銑次たちは全員脱獄。仲間たちが次々と殺される中、銑次は小舟で石狩川を下り、小樽を目指す。知らせを聞いた嘉顕は銑次の戸籍を消すことと交換に書記官を退官する。未だ藩閥にこだわる上司との対立が本当の理由だった。小樽に着いた銑次は菊子の計らいでおもんと再会する。翌朝、二人は嘉顕、千代、菊子に見送られて東京へ向かった。戸籍上死亡とされ追手にかかることはない。そして嘉顕は鹿児島へ下野する。下野しても決して天下国家を忘れてはならぬ。それが世話になった義理の弟・嘉顕への銑次の別れの言葉だった。おもんは無理がたたり衰弱、凌雲の病院へ入院する。病状は酷いが一生懸命生きようとしている。凌雲は銑次におもんと所帯を持つよう勧める。銑次は収監中に考えていることがあった。もし外に出ることが出たら「俺たちと同じように酷え目に遭ってる奴らがいたらきっと見方をしてやろうと。だから所帯持ってじっとしてるつもりはねえんです」。しかし今のおもんに聞かせてはならない。鹿児島で晴耕雨読の毎日を送っていた嘉顕にカムバック要請が届く。憲法制定のため伊藤博文(五右衛門)は優秀なブレーンを集めていた。その頃、おもんはみるみる衰弱。意識を失いかけているおもんに銑次は花嫁衣裳を用意。凌雲、瑞穂屋、英吉親分、そして芸人としてまともに生きるようになった不良弟たちが見守る中、祝言を挙げる。銑次の温もり、弟の呼ぶ声にどこまで届いたか分からないまま穏やかな表情で息を引き取る。銑次は会津に向かった。会津は反政府色が強く、自由民権運動の砦の一つだった。そこで政府は弾圧を展開する。次々と指導者を逮捕された農民は喜多方警察署に集まり、指導者の開放を求めるが武装した警官に壊滅させられる。銑次は伊河泉太郎を救出し秩父に向かう。秩父にはデフレ政策で不景気に喘ぐ農民の面倒を見ていた英吉親分がいた。銑次は二人に熱く語る。「百姓町人は維新でちっとも救われてねえ。いやそれどころかいつまで経っても屑同然だ。維新のやり直しだ。百姓町人の明治維新だよ」。その頃、憲法の起草草案作りのためヨーロッパを訪問していた伊藤博文が帰国する。嘉顕は自ら作った憲法の草案を伊藤に提出する。それは集会や結社、言論、革命の自由を認めるものだった。伊藤は草案の出来を褒める一方で、四民平等を否定する華族制度を作ろうとしていた。嘉顕は伊藤に直談判するが、国民に主権を与えるのは早いと一蹴される。「今の日本はね遮二無二に力をつけにゃいかんのです。異論はありますか?」「私はそのような憲法には根底から反対でございます」「なら辞めなさい。私の信念は変わらない」。嘉顕は自己の信念とする自由主義的な憲法草案を書き進める。一方、秩父では困民党が組織され武装蜂起を決定する。憲法草案を完成させた嘉顕は政府だけでなく民権派からも危険視されていた。警察に追われ、怪我を負ったまま鹿鳴館を目指す。憲法草案を握りしめたまま警官に滅多切りにされる嘉顕。鹿鳴館ではパーティが開かれている。千代は嘉顕が憲法草案の下書きで折った兜を手にして胸騒ぎがするが、表では警官たちが見張っている。そして嘉顕は絶命する。緊張が高まる秩父に医者になるため北海道を出た保子が訪れた。銑次に千代から預かった嘉顕の憲法草案を渡す。「国民は愚か者ばかりにあらず。もし国民の声を聞かず政府官僚が独裁独善に陥れば必ず国は破局に向かう。願わくば日本国憲法は国民の自由自治を根本とした・・・」。銑次は「くそ真面目を貫いた頑固な優しい男だった」と口にする。そして保子に「お前も頑固に医者になれ」とパリ行きを勧める。「昔はおじさんも日本中に鉄道を敷こうと思ったがみるみる歳は取るもんだ。ガハハハ」。武装蜂起の朝、銑次は「自由自治元年」と書いた旗を作る。集結した農民は三千人。政府は警察の手に余ると見るや軍隊を派遣する。困民党は天皇に逆らう暴徒であり、国内に不穏な動きが波及する前に徹底的に弾圧する方針だった。その中に紘造の姿があった。英吉親分は命を落とし、秩父は軍隊と警察に囲まれてしまう。農民たちが次々と脱落していく中、銑次と泉太郎は残った農民たちに徹底抗戦を促す。秩父の外にはいくらでも百姓はいる。いくらでも味方がいる。どのようにしてでも政府を動かさなければならない。追い詰められた銑次と泉太郎は無駄死にを避けるため農民たちに村へ帰るよう指示する。「村に帰って土さ耕して時を待て」「きっと俺たちは戻ってくる」。旗を掲げながら敵陣を突破する二人。そのまま上州を目指そうとするが泉太郎が銃弾に撃たれる。パリ以来の盟友を失った銑次はたった一人で斬りまくる。困民党は壊滅した。紘造は銑次を探すが遺体は発見できなかった。その代わり「自由自治元年」の旗に銑次の筆跡をみた。明治二十二年二月十一日。大日本国憲法が発令され、揺れ続いた明治政権はようやく確立する。「その頃パリに向かう汽車に一人の娘が乗っていた。凌雲に支えられ医学校に留学することになった保子である。銑次がパリに来てから23年が経っていた」。千代は息子を連れ、鹿児島で嘉顕の母親と暮らしていた。憲法草案を読み上げる嘉顕の声が響く。嘉顕の息子を頼もしく見つめる二人。「やがて日本は日清戦争へ突入、さらに日露戦争への道を歩いていく。そのような歳月の中で幾度か銑次の姿を見たという人があった。例えば栃木県足尾銅山鉱毒事件の弾圧の最中で。例えば北海道幌内炭鉱の暴動弾圧の最中で、激しく抵抗する銑次を見たという人がいた。そして噂の銑次はいつも戦い、抗う銑次であった」。お・わ・り大河ドラマは歴史上の人物のサクセスストーリーがほとんど。しかし『獅子の時代』は主人公である架空の下級武士がどんどん没落し、反体制運動に身を投じる異例の物語。俳優をセミリタイヤして農業に従事、反原発運動や辺野古移設反対運動に協力する晩年の菅原文太と平沼銑次の姿が重なる。調べるとパリロケは昭和54年9月。『トラック野郎』の最終作『ふるさと特急便』の公開は『獅子の時代』の放送開始と同じ昭和55年1月。撮影はどっちが先だったんでしょう?パリ編の銑次は明らかに星桃次郎の芝居が混ざっているが、中盤辺りから完全に平沼銑次になってカッコいい。放送当時、最終回をカセットテープに録音してセリフを覚えたくらいハマった。総集編もしっかり観た。でも次回作の『おんな太閤記』(脚本・橋田壽賀子)は観なかった。