夏の社交シーズンが終わりを告げようとしている8月下旬のある日、足のけがが完治した仁錫(イソク)は、クレモンティーヌとの約束を守りバロワ伯爵邸を訪れた。
『イソク、もう足の怪我は大丈夫なの?』
『ええ、お蔭様で。』
『よかったわ。あちらへいらして、あなたの為に美味しいお菓子を用意したのよ。』
『ありがとうございます。』
クレモンティーヌとともにダイニングルームへと入った仁錫だったが、そこにはバロワ伯爵の姿はなかった。
『お父君は?』
『お父様は仕事でロシアに行っているのよ。あなたと会えることを楽しみにしていたのだけれど、お仕事じゃ仕方がないって言ってたわ。』
『そうですか。』
『ねぇイソク、日本の女性達はいつもキモノを着ているの?』
『わたしが世話になった家では、男女ともに着物を着ていました。わたしはそこでゲイシャとして働いていました。』
『ゲイシャ?それって、娼婦と同じような仕事をしている方達のことなの?』
『とんでもない。彼女達は芸を売っても身体は売りません。お客様をおもてなしする為に、日々努力しているのです。』
教坊に居た時の事や、舞妓として椰娜(ユナ)とともに働いた置屋でのことをクレモンティーヌに話した。
『そのユナさんという方、是非ともお会いしてみたいわ。』
仁錫の話を聞き終わったクレモンティーヌはそう言って目を輝かせながら紅茶を一口飲んだ。
『姫様は素敵なお方ですから、きっと気に入ると思いますよ。』
『ユナさんの事を、“姫様”と呼ぶのはどうして?高貴なお方なの?』
『小さい頃色々な遊びをしていて、その時の呼び方がまだ抜けないんです。』
『まぁ、そうなの。』
クレモンティーヌと楽しく過ごした後、仁錫は彼女に見送られながらバロワ伯爵邸を後にした。
『お嬢様、今夜は何やらご機嫌ですね。』
『ふふ、そう思う?』
その夜、クレモンティーヌが鼻歌を歌いながら髪をブラシで梳いていると、乳母が彼女の顔を怪訝そうに見ながらそう言って苦笑した。
『何がおかしいの?』
『いえ・・最近のお嬢様は怒っていらっしゃるお顔よりも、笑顔の方が多いなと思いまして。』
『あら、そうだったの。あなたはもう下がって。』
『では、お休みなさいませ。』
乳母が部屋から出て行くと、クレモンティーヌは溜息を吐いてベッドに横たわった。
目を閉じていても、何故か仁錫の顔ばかりが浮かんできて眠れなかった。
(どうしてしまったのかしら、わたし・・)
仁錫に恋をしてしまったと、クレモンティーヌはこの時初めて気づいてしまったのだった。
『御機嫌よう、クレモンティーヌ様。』
『皆さん、御機嫌よう。あら、あの方はどなた?』
『ああ、あの方はエリス様といって、イソク様の異母姉君様ですわ。』
慈善活動の集まりで会場の隅に居るエリスを見たクレモンティーヌが彼女に話しかけようとした時、一人の男がエリスの方へと近づいてくるのを見てやめた。
『エリス様、お久しぶりです。』
男はそう言うと、エリスに微笑んだ。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.09.04 10:10:09
コメント(0)
|
コメントを書く
[連載小説:茨~Rose~姫] カテゴリの最新記事
もっと見る