「準備はよろしいですか、アフロディーテ様?」
カエサルはそう言ってアフロディーテの控室のドアをノックした。
「ええ、いいわよ。」
部屋に入ると、今宵一夜限り開かれるコンサートの為に用意したドレスを身に纏ったアフロディーテが、ドレッサーの前に座っていた。
醒めるようなロイヤルブルーの布地に、黒薔薇の繻子模様がアフロディーテの髪と瞳の美しさを引き立てていた。
今夜のアフロディーテにはいつもの明るさはなく、まるで大親友の通夜にでも行くような顔をしている。
アフロディーテが暗い顔をする理由は、カエサルにはわかる。
今夜が自分の最後のコンサートとなることを、アフロディーテは知っているからだ。
「アフロディーテ様?」
「・・あら、いたの?気がつかなかったわ。」
アフロディーテはそう言って無理に笑顔を作った。だがそんなことで簡単に誤魔化されるカエサルではなかった。
「怖いのですか?戦いの先に待ち受ける永遠の闇が?」
「馬鹿なこと言わないで。わたしはちっとも怖くなんかないわ。寧ろ嬉しいくらいよ・・」
口ではそう言っているが、アフロディーテの手は小刻みに震えていた。
「行きましょ、カエサル。もう開演の時間だわ。」
「・・はい。」
小さく震える背中をカエサルは見つめながら、その背中を優しく抱き締めてやりたい衝動に駆られた。
「いよいよだな・・」
ルドルフはそう言って、ミヒャエル門をくぐった。
かつて自分が住んでいたホーフブルク宮は、現在は観光スポットとして一部の部屋が一般公開されている。アウグスティーナ教会もそのひとつだ。
アウグスティーナへと向かうと、そこにはドレスアップした男女が次々と会衆席を埋めていくのが見えた。彼らはアフロディーテの歌を聴きにやってきたのだ。
ルドルフも観客の1人だった。
しかし能天気で平和ボケしている他の観客達とは違い、彼はただ1つの目的でここに来ていた。
長い戦いを終わらせる為に、彼はここに来たのだ。
自分の命と引き換えに。
「ルドルフ様、そろそろ開演の時間です。」
「ああ、わかっている。」
ユリウスとルドルフはステージである祭壇の方を見た。
その時、アフロディーテが裾の長いドレスを纏い、胸元には黒薔薇と真珠のネックレスで着飾ってステージに現れた。
それと同時に、楽団が『アヴェ・マリア』を奏で始めた。
天使の歌声が、教会内に響いた。
歌っている時のアフロディーテの姿は、NYで見た時とは違い、少し青ざめていた。いつもは自信満々の光で満ちている蒼い瞳は、これから迎える死の恐怖に怯えているように見えた。
(アフロディーテ・・)
死を前にしても、美しい姿で立ち、美しい声で熱唱する歌姫。
ユリウスの脳裏に、アフロディーテと地下牢の扉越しで初めて言葉を交わした時のことが浮かんだ。
“あなた、誰?”
鈴を転がすような声で自分に問いかけた声。
ユリウスはその声を聞き、名もない扉越しの少年に名を与えた。
春の女神の名を。
それから歳月が過ぎ、少年は地下牢からユリウスの手によって外に解き放たれた。
彼はいつも死を纏い、虐殺を繰り返した。だが彼は天性の歌声で名声を高めていった。
だが彼は今夜死ぬ。
扉越しに自分に名を与えてくれた少年と、血が繋がった双子の兄の手にかけられて。
歌い終わったアフロディーテは、丁寧に観客達に向かってお辞儀をした。
そしてゆっくりと顔を上げた。
アフロディーテの目に飛び込んできたのは、自分と同じ顔をした、真紅の軍服を纏った男と、濃紺の燕尾服を着た男の姿だった。
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Last updated
2011.07.26 20:42:06
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