「ねぇ聞いた? 久嗣様に新しい家庭教師の先生が来たんですって。」
「まぁ・・久嗣様は我が儘言うから、また追い出されるかもしれないわねぇ。」
「問題は久嗣様よりも旦那様の方でしょう? 女癖が悪くて、外に十人も隠し子が居るって噂なんだから。」
千尋が久嗣の授業を終えて有沢侯爵邸を後にしようとした時、厨房で茶菓子を摘みながら女中達が立ち話しているのを聞いた。
「あなた達、何を話しているの?」
「お嬢様・・」
「今日はわたくしの友達が来ると、昨日伝えた筈でしょう? 下らない噂を垂れ流してないで、仕事なさい!」
麗子はピシャリとそう言うと、厨房から出て行った。
「あら千尋さん、もうお帰りになられるの?」
「はい・・」
「そう。お気をつけて。」
麗子は興味がないと言わんばかりに、千尋に背を向けるとリビングへと入ってしまった。
「あんた、新しく家庭教師に来た方だろ?」
千尋が玄関ホールへと向かおうとした時、中年女性が立っていた。
「あなたは?」
「初めまして、有沢家の女中頭、きくです。こんな厄介な家にお世話になるなんて、大したもんだねぇ、あんたも。」
「厄介な家?」
「ちょっと、こちらへ。」
きくに連れられて千尋は、使用人が暮らす部屋へと入った。
「雇い主のことは余り悪く言いたかないんだけどねぇ、ここの一家は碌でなしばかりさぁ。旦那様は外で遊び呆けて、奥様やお嬢様は家の金でドレスだの装身具だの散財し放題、お坊ちゃまは我が儘で甘ったれと来た。戊辰の戦じゃぁ勲功立てたって聞いたけど、それも本当かどうか。」
きくはそう言うと、煙管を吸った。
「余り久嗣様に振り回されないようにね。ま、あんただったらそうはしないだろうけど。」
「ご忠告、ありがとうございます。」
有沢侯爵邸を出て、長屋へと帰ると、千尋は疲れがどっと出て来て溜息を吐いた。
あんな家で、あの我が儘坊やの相手を毎日しなければならないのかと思うと気がめいるが、生活の為だから仕方がない。
全ては、最愛の息子の為だ。
「お帰りなさいませ、旦那様。」
「ただいま。巽は?」
「ぐっすり寝てますわ。でもこんな時間帯に寝られると夜泣きしてしまうかも。」
「俺があやしてやるよ。はじめは嫌がってたんだけど、どうも慣れてきたみたいでな。」
「そうですか。」
翌朝、千尋は久嗣に勉強を教えるが、机から離れて部屋中を走り回ったりして彼は始終落ち着きがなかった。
「ねぇ、今度千尋のお家に遊びに行っていい?」
「なりませんよ。わたくしは坊ちゃまのお友達ではありませんから。」
「何だよ、僕の言う事が聞けないっていうのかよ! 遊びに行ってもいいだろう!」
「坊ちゃま、わたくしはあなたの先生ですよ。さぁ、そろそろお勉強に戻りましょう。」
千尋はそう言って久嗣の手をひいて机に座らせようとしたが、彼は床で転がって駄々を捏ね始めた。
「宿題はここに置いておきますからね。ではまた明日。」
「ケチ、意地悪~!」
「久嗣、また先生を困らせているのかい!」
部屋のドアが開き、丸髷を結った老女が部屋に入って来た。
「お祖母様、千尋が僕の言う事を聞いてくれない!」
「お黙り、久嗣! そんな事をしてないで、勉強にお戻り!」
老女がそう久嗣を叱ると、彼はぶすっとした顔で机に戻った。
「申し訳ございません、うちの孫がご迷惑をおかけしてしまって。わたくし、久嗣の祖母の、しのと申します。」
老女はそう言って、千尋に頭を下げた。
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