「今日はここまでにして、朝飯を食べた後市場に出かけるとしよう。」
男―尚俊(サンジュン)はそう言うと、自分の前に座っている少年を見た。
「はい、尚俊様。」
彼はそっと伽耶琴(カヤグム)から離れると、壁に凭れかかって目を閉じた。
「寝ていないのか?」
「ええ。あの婆さんが寝かせてくれないんです。どうしてわたしだけに辛く当たるのか、意味が判りません。」
少年はそう言って溜息を吐いた。
「ベクニョ様にはベクニョ様なりのお考えがあるのだろう。芸がない妓生(キーセン)など、生きていても迷惑だと思う方だからね。お前がまだ見習いの内に、あれこれ仕込んでこの教坊を背負って立って欲しいと思っていらっしゃるのだろう。」
「そうですかぁ? 単に人使いが荒いだけだと思いますけど?」
少年は少し頬を膨らませると、床に寝転がった。
艶やかな黒髪が床に広がり、その中で牡丹の簪が一際美しく輝いていた。
「起きなさい椰娜(ユナ)。折角結った髪が解けてしまったじゃないか。全くお前という子は、いつも落ち着きがないんだから。」
尚俊は呆れたようにそう言うと、溜息を吐いて少年―椰娜を見た。
「はぁい。」
椰娜はゆっくりと起き上がり、牡丹の簪を拾った。
「それは、お前のか?」
「はい。物心ついた時からこの簪を持っていました。どうしてわたしがこの簪を持っているのか、どうしても思い出せないんです。」
「そうか。精巧な作りからみて、一流の職人が作ったものだな。恐らく、宮廷お抱えの者の手によって作られたものかもしれん。」
「そうですよね。一目見ただけでも、高価なものだってことがわたしにだって判りますもの。宮廷の方とお知り合いの尚俊様なら、この簪を誰が作ったのか、お詳しい筈ですよね?」
期待に満ちた紺碧に近い蒼い瞳を煌めかせながら、椰娜が尚俊を見ると、彼は溜息を吐いた。
「それはわたしでも判らないよ。さてと、市場に行こうか。」
「はい、支度して参ります!」
椰娜はそう言うと、さっと立ち上がって尚俊の部屋から出て行った。
市場は今日も、人でごった返していた。
通路を挟んで様々な物が売られており、その中には髪飾りやチマの房飾りを売っている店もあった。
「尚俊様、少しあちらの店を見てもいいですか?」
椰娜はそう言って髪飾りを売っている店の軒先に陳列されてある簪を手に取った。
「全く、お前という奴は・・」
尚俊は呆れ顔でそう言いながらも、椰娜を見つめる目は穏やかだった。
桃色のチマを揺らしながら椰娜は、店の商品を見て回った。
「そろそろ行くぞ。」
「はぁ~い。」
椰娜がそう言って店を出ようとした時、彼は誰かとぶつかった。
「あ、すいません。大丈夫ですか?」
「いや、大丈夫だ。」
椰娜が後ろを振り向くと、そこには洋装姿の青年が立っていた。
夏の陽光に照らされて美しく輝く金髪に、青空をそのまま映し取ったかのような美しい蒼い瞳に、椰娜はしばし見惚れてしまった。
「君の瞳・・綺麗だね。」
青年はそう言うと、椰娜の頬を撫でようと手を伸ばした。
『エドワード、早く来いよ!』
青年の指先が椰娜の頬に触れようとしたその時、突如店の外から英語が聞こえた。
『解った、すぐ行く。』
青年は名残惜しそうに椰娜から離れると、店の外へと出た。
「待って!」
慌てて彼の後を追おうとした椰娜だったが、彼は雑踏に紛れて見えなくなってしまった。
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