病院の廊下で偶然恋人と再会したファヨンは、彼と共に近くの喫茶店へと向かった。
「コーヒーを二つ。」
「かしこまりました。」
ファヨンはソファの上に腰を下ろすと、漸く恋人―ヨンイルの顔を見た。
「まさか、あんな所で貴方に会えるなんて思いもしませんでした。」
「俺もだよ。どうして病院なんかに居たんだ?」
「わたし、今満韓楼っていう妓楼で働いているの。そこの女将さんが怪我をしてそのお見舞に・・ヨンイル様はどうして病院に?」
「母が、あそこに入院しているんだ。」
「お母様が・・」
恋人の話を聞きながら、ファヨンは彼の母親と初めて会った日の事を思い出した。
ファヨンは母親と共に恋人・ヨンイルの家で使用人として働いていた。
ある日ファヨンは、空腹の余り厨房に置かれてあったクッキーをつまみ食いしてしまった。
その事を知ったヨンイルの母は、幼いファヨンの身体を容赦なく鞭打った。
“この泥棒娘!”
ファヨンは、あの時見た彼女の顔が怖くて仕方なかった。
「お母様、何処かお悪いのですか?」」
「あぁ、母は精神を病んでしまったんだ。」
「あの奥様が?」
「母は数年前から、自分だけの世界の住人となってしまったんだ。」
「そうですか・・」
ファヨンはそう言うと、ヨンイルが自分を見つめている事に気づき、頬を赤く染めた。
「ファヨン、結婚は?」
「いいえ・・ヨンイル様は?」
「いいや、まだしていない。出来れば、お前と結婚したいと思っている。」
「ヨンイル様・・」
「昔から、お前だけだ・・結婚したいと思った女は。」
「嬉しい・・」
ヨンファはそう言うと、ヨンイルと手を握り合った。
一方上海では、留こと武乃が厳しい修行を終えて“一本”の日を迎えていた。
「女将さん、支度出来ました!」
「そうかい。」
「女将さん、失礼致します。」
女将の部屋に入って来た武乃は、美しい紋付の留袖に、加賀友禅の帯を締めていた。
「あぁ、わたしが思った通りだ!武乃、そこへお座り。」
「はい。」
そう言って女将の前に座った武乃からは、あの粗末な紺の絣を着た貧しい少女の面影はとうに消えていた。
「青森からあんたがここに来てからもう二年・・あたしはあんたが立派な芸妓になると信じていたよ。」
「ありがとうございます。」
「これからが気の引き締め時だよ。あんたはこのまま終わるような子じゃない。」
「はい・・」
「そこでだ、あんたには哈爾浜(ハルビン)へ行って貰う。そこで置屋を一軒、あんたに任せたいんだよ。」
「わかりました。」
「大丈夫、あんたなら出来る。」
こうして、武乃は哈爾浜へ行く事になった。
「さぁ、気張って行っておいで!」
「はい。」
駅で女将と仲間達に見送られながら哈爾浜行きの列車に飛び乗った武乃は、そこで黒髪紫眼の青年と出会った。
「ここ、いいですか?」
「どうぞ。」
(あんれ、えれぇめんこい男だぁ!)
武乃がそう思いながらその男に見惚れていると、その男―土方歳三は、興信所からの書類に目を通していた。
それは、千代乃の近況が書かれたものだった。
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