この日の夜、満韓楼を訪れた女性客の大半は、満州鉄道の社員の妻達だった。
「土方様、こんな所で再び会えるなんて嬉しいですわ。」
「薫子様。」
歳三が客達をもてなしていると、そこへかつての自分の縁談相手であった九条薫子がやって来た。
「奥様の事、大変お気の毒でしたわね。」
「お気遣い頂き、ありがとうございます。」
「土方様、ではまた・・」
去り際、薫子はそう言って一枚のメモを歳三に手渡した。
そこには、“明朝10時、哈爾浜駅近くの喫茶店『ミツヤ』でお待ちしております。”とだけ書かれていた。
「あ~、疲れた。」
店を閉めた後、歳三は執務室に入るとそう言って深い溜息を吐いた。
『お疲れ様でした、トシゾウ様。』
『支配人業っていうのは、大変なものなんだな。』
『今夜いらしたお客様は、全て満鉄の方でしたね?』
『あぁ。なぁユニョク、ここはあんまり男の使用人が多くねぇな。』
『えぇ。ここは女所帯ですから、間違いが起きてはいけませんので、料理番をはじめとする妓楼内の使用人達は全て女性で纏められています。』
『女同士だと、色々と積もる話が出来るからな。』
『トシゾウ様、余り無理なさいませんように。』
『あぁ、わかったよ。』
『では、お休みなさいませ。』
『あぁ、お休み。』
ユニョクが執務室から出ると、傍に居た妓生達が、彼の方へと駆け寄って来た。
『ねぇユニョクさん、支配人はもう寝たの?』
『それじゃぁ、あたしが添い寝してあげないと!』
『抜け駆けは駄目よ!』
そう言い合う妓生達の顔は、何処か色めき立っていた。
『お前達、もう休め。』
『はぁい。』
歳三が来てからというものの、妓生達は彼の事を気にしているようだった。
女所帯の中に突然、男―特に美男がやって来たのだから、彼女達の反応は当然のものだとユニョクは思っている。
(何事も、起きなければいいが・・)
翌朝、歳三は薫子との約束の時間までまだ時間があるので、風呂に入る事にした。
脱衣所で夜着を脱いで裸になると、外から妓生達の歓声が聞こえて来た。
『随分と立派だったわねぇ。』
『朝からいいモノを拝ませてもらったわ!』
(ユニョクが言っていた通りだな・・女所帯の中で暮らすってのは、こういうことか・・)
薫子より先に、『ミツヤ』に着いた歳三は、珈琲を飲みながら、そう思うと溜息を吐いた。
「歳三様、お待たせしてしまいましたわね。」
そう言って歳三の前に現れた薫子は、百合の刺繍が施されたチマチョゴリを着ていた。
「薫子さん、その服は・・」
「どんな服なのか、一度着てみましたの。お着物と違って、袖が邪魔にならなくていいですわね。」
「えぇ、そうですね・・」
「歳三様、何故妓楼の支配人に?てっきり家を継がれたものとばかり・・」
「事情がありましてね。薫子様は、何故哈爾浜へ?」
「父の仕事の都合でこちらに参りましたの。」
薫子はそう言うと、歳三の手をそっと握った。
「また、会って頂けるかしら?」
「どうでしょう、今は仕事が忙しいので・・」
「そうですか。」
(何だ、この女?)
いくら自分の縁談相手だったとはいえ、急に自分に対して馴れ馴れしい態度を取って来た薫子に、歳三は少し不快感を抱いた。
「では、俺はこれで。」
「えぇ、また。」
店の前で別れた歳三は、そのまま千代乃の元へと向かった。
「まぁ、そんなことが・・」
「まさか、女に覗かれるなんて思いもしなかったよ。女所帯は恐ろしいな。」
「女ばかりですからね。歳三様のような美男は珍しいのでしょう。」
千代乃は歳三の話を聞いた途端、そう言うと笑った。
「お前ぇはこれからどうするんだ?置屋の皆が心配しているぞ?」
「文を先程、置屋の皆さんに送りました。わたくしはもう、日本には戻りません。」
「そうか・・俺も、あそこには戻らねぇ。元からあの家には、居場所などなかったからな。」
「では・・」
「俺の妻になってくれねぇか、千代乃?」
「・・はい。」
そう言った千代乃は、嬉しさの余り涙を流していた。
数日後、千代乃は無事退院し、満韓楼へと戻った。
『女将さん、お帰りなさい!』
『お帰りなさい!今日は女将さんの好物のクッパを作りましたよ!さ、熱いうちに召しあがって下さいな!』
久しぶりの主の帰還を満韓楼の妓生達が盛大に祝っていると、東京では土方家の者達が歳三の文を読んで困惑していた。
「もう日本には戻らないだって!?あの子は一体何を考えているんだい!」
にほんブログ村