『実はね、父があなたに会いたがっているのよ。』
『お前の親父さんが?』
ソンヒの言葉を聞いた歳三は、大学時代の苦い思い出が脳裏を過ぎった。
当時、歳三はソンヒと交際しており、将来は結婚を考えていた。
しかし、ソンヒの父・テジュンは二人の交際を許さず、ソンヒに財閥の御曹司との縁談を持ってきた。
『君の家と私の家では、家柄が違う。我が家は両班(リャンバン)(注*1)、君の家は賤民(せんみん)の出だ。仮にも両班の血をひく娘が、賤民の血をひく息子と結ばれるなど、我が国ではあってはならないことなのだよ。』
ソンヒの家に挨拶に言った時、テジュンにそう侮辱されたことは忘れもしなかった。
ソンヒとは自然消滅し、テジュンとはあの日以来会ってもいない。
そのテジュンが、どうして今更自分に会いたがる理由がわからなかった。
『誇り高い両班の家長様が、賤民の俺に会いたくはないんじゃないか?』
過去のことを多少皮肉りながら歳三がそう言うと、ソンヒは溜息を吐いた。
『あの時、父はどうかしていたのよ。会社も大変な時期だったし・・でもあなたと最後に会ってから脳梗塞になって、右半身が麻痺して言語障害が出てしまって、今は特養老人ホームに居るのよ。』
ソンヒの言葉は、俄かに信じられないものだった。
あの自信に満ち溢れ、平気で他人を傷つけていた傲慢な男が病によって身体の自由を奪われてしまうなど、想像もつかないことだった。
『言っとくが、俺は親父さんには会わねぇ。ソンヒ、お前とはもう終わったんだ。』
『そう・・ではわたしはこれで失礼するわ。』
ソンヒはそう言うと、そそくさと清子の家から出て行った。
『ばあさん、倒れたことどうして言ってくれなかったんだ?』
『ごめんよぉ、あんた達に心配を掛けさせたくなくてね。ソウルには何日居るんだい?』
『明後日には帰るよ。本当はこっちに戻って暮らしたいけれど、東京のホテルで働き始めたばかりだからな。』
『そうかい。じゃぁ明日、爺さんの墓参りでも行こうかねぇ。』
そう言った清子の顔は、何処か悲しそうだった。
翌日、歳三達は清子の夫・ナムジュンの墓がある束草(ソクチョ)へと向かった。
『あなた、可愛い孫と曾孫達が来ましたよ。さぁヨンイル、うちの人に挨拶しておくれ。』
清子にそう言われ、歳三は娘たちと墓に眠るナムジュンに挨拶をした。
『ねぇヨンイル、あんた今度はいつ帰ってくるんだい?』
『そうだなぁ、秋夕(チュソク)(注*2)には帰ってくるよ。』
墓参りの後、家族で寄った定食屋でクッパを食べながら歳三がそう言うと、清子はため息を吐いた。
『そういえば、昨日家に来たソンヒだけどね、あの子の家、今大変なんだよ。昔は羽振りは良かったけれど、リーマンショックで会社が倒産してねぇ。旦那からは離婚されて、一人で父親を養うためにルームサロン(注*3)で働いているんだよ。』
『あのソンヒがルームサロンで?』
歳三はお嬢様育ちであったソンヒがいくら父親を養うとはいえルームサロンで働くなど、どのような思いを抱えながら生きているのだろう。
『何処のルームサロンだ?』
『そうだねぇ・・確か、江南(カンナム)あたりだったと思うよ。』
清子から渡されたソンヒの名刺を頼りに、歳三は彼女が働いているルームサロン『スター』へと向かった。
『いらっしゃいませ。』
彼が店に入ると、50代前半と思しきママが笑顔で彼に近づいてきた。
『ここでソンヒって子は働いてないか?』
『ああ、あの子ならパク室長の部屋に居ますよ。ここのお得意さまでねぇ、よく指名してくださるんですよ。』
『ありがとう。』
歳三がソンヒと客が居る個室のドアを叩いて中へと入ると、そこにはパク室長の体にしなだれかかるソンヒの姿があった。
『ヨンイル、どうしてここへ?』
『少し話をしよう。』
ソンヒの腕を掴んで彼女を店の外へと連れ出した歳三は、彼女を睨んだ。
『どうして俺に何も言ってくれなかったんだ!』
『これはわたしの家の問題よ。あなたには関係のないことよ。』
『じゃぁ親父さんが特養老人ホームに居るってのも嘘だったのか!?』
『ええ・・そうよ。わたしは、わたしは父を捨てたのよ・・』
ソンヒはそう言うと、俯いた。
『わかるように話してくれねぇか?』
『わかったわ。ここじゃなんだから、あそこで話しましょう。』
数分後、コーヒーショップで向かい合わせに座ったソンヒは深呼吸した後、自分達の身に起こった出来事を話し始めた。
注*1 朝鮮王朝時代の貴族階級のこと。
注*2 韓国の旧暦8月15日に伴う祭日。
注*3 ホステス付のクラブで、店外での性的サービスも含む。
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