『ソウルに居たときは主人が大変お世話になりました。』
千尋は余りソンジュに良い感情を持っていなかったが、ソウルで歳三が何かと彼に世話になったので、挨拶だけしようと思い、そう言って彼に頭を下げると、彼は突然笑った。
『どうかなさいました?』
『いえ・・普通嫌いな相手に挨拶するのは珍しいなと思って。それが日本人らしさですね。』
そう揶揄(やゆ)されて、千尋は少しムッとした。
(やっぱりこの人、好かん!)
挨拶なんてするんじゃなかった―千尋はそう思いながら早くこの場から立ち去りたかった。
『では、わたしはこれで。』
くるりと背を向けて立ち去ろうとする千尋の手を、ソンジュは突然掴んだ。
(な、何!?)
『ちょっと付き合えますか?』
『何するんですか、離してください!』
突然大声を上げた千尋に、周りの客は何事かと彼らの方を振り向いた。
『少し話したいことがあるんです。』
『一体何の話ですか?ここでは言えない様なこと?』
『まぁ、そうですね。』
ソンジュはそう言って口端をあげてニヤリと笑うと、強引に千尋をその場から連れ去っていった。
エレベーターに乗ったソンジュは地下駐車場へと向かい、助手席に無理やり千尋を座らせると車を発進させた。
『何処へつれていくんです?』
『静かに話ができるところです。』
いまいち彼のことが信用できない千尋は、夫に電話をかけようとして携帯を取り出そうとしたが、バッグの中になかった。
もしかして、さっきデパートの中で落としてしまったのだろうか。
『どうしました?』
『携帯を落としてしまいました・・』
『そうですか。わたしには関係のないことですが。』
千尋はソンジュの言葉が少し癪に障った。
数分後、ソンジュが運転する車はソウル市内にあるカフェの駐車場に停まった。
『コーヒーを。』
店員に飲み物を注文すると、ソンジュは千尋の方に向き直った。
『手短に用件を言ってください。』
『あなた、ご主人と学生時代付き合っていたキム=ソンヒをご存知ですか?』
『ええ、以前に会ったことがありますが、それが何か?』
『あなたのご主人は、彼女と浮気をしていますよ。』
ソンジュの言葉を、千尋は鼻で笑った。
『馬鹿なこと言わないで!うちの人が浮気するわけないでしょ!』
『あなたはご主人のことを信頼しきってるんですね。』
ソンジュはそう言ってニヤリと笑うと、一枚の封筒を取り出した。
『その中にご主人の浮気の証拠が入ってます。』
『こんなものには興味はないわ。』
『へぇ、そうですか。』
『あなたは非常に不愉快な方ね!』
千尋は自分のコーヒー代をテーブルに叩きつけると、カフェから出て行った。
(さっきのデパートに戻って、携帯を探さなきゃ・・)
初夏にしては眩しい日差しが千尋の全身を射し、彼女は突然めまいに襲われて倒れてしまった。
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