『・・貴様、また来たのか?』
ドアの近くに人の気配を感じた中川は、またあの女が来たことを知り顔をしかめた。
『ねぇ、こんな不潔な所よりも、わたくしの家で暮らさないこと?』
『お断りだ。』
中川はそう言うと、枕を投げた。
『あら、元気だこと。その様子じゃ、すぐに退院できそうね。』
その女性は、中川の頬を撫でた。
『あなたはわたしに恩がある筈よ。あの時、わたしが助けなかったらあなたは死んでいたのよ。』
女性は勝ち誇ったような笑みを浮かべると、中川は彼女にそっぽを向いた。
『今日は帰るわ。いい返事を待っているわね。』
ドアが閉まった後、中川は深い溜息を吐いた。
(全く、嫌な女だ・・)
中川はあの女性―アルネルン子爵夫人と出会ったのは、テムズ川が凍結した冬の夜のことだった。
渡英したものの、商売の共同経営者に逃げられ、無一文となったところに馬車が突っ込んできた。
その馬車には、劇場帰りのアルンネルン子爵夫人が乗っていたのだ。
『あなた、大丈夫?』
そう言って自分を助け起こしてくれた彼女はあの時天使に見えたが、今になって思えばあれも作戦のうちだと考えれば、納得がいった。
あの女に魅入られたときから、中川の終わりのない悪夢は始まったのだ。
『わたしと一緒に暮らさない?』
彼女がそう言い出し始めたのは、去年の夏ごろだった。
彼女がそう言い出した理由は、子爵夫人が産み、生き別れた娘・アリエルを引き取ろうとしていることだとわかっていた。
『あの子には父親が必要なのよ。だから、あなたが父親になってちょうだい。』
一方的に理不尽な要求ばかり押し付けてくる彼女のことを、中川は最近辟易していた。
視力さえ戻れば、あの女から逃げられるのにーそう思いながらもままならない己の身体に、中川は焦りを感じ始めていた。
「中川さん。」
数日後、正義はアリエルとともに中川とともに彼の病室へと向かうと、そこには何もなかった。
『すいません、この部屋に居た患者さんは何処へ?』
『ああ、彼なら今朝早く退院されましたよ。』
『退院?』
看護師の言葉を聞いた正義は、アリエルと顔を見合わせた。
『あなたのご友人、一体何処へ消えてしまったのかしら?』
『さぁ、見当もつかん。盲目の中川さんが一人で勝手に退院するわけがないし・・』
正義がアリエルと中川の退院についてそう話しながら病院の外から出ると、突然彼らの前に一台の馬車が停まった。
『アリエル、迎えに来たわよ。』
『あなたは?』
『わたしはあなたを産んだ、実の母親よ。さぁ、お母様と一緒にお家に帰りましょう?』
そう言った女性の目は、全く笑っていなかった。
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