イラスト素材提供:十五夜様
1945(昭和20)年8月9日、長崎。
長崎港に停泊した船から降りた歳三は、二年ぶりに祖国の土を踏んで溜息を吐いた。
彼が提げている旅行鞄の中には、櫻子と顕人への土産が詰まっていた。
歳三は港からゆっくり離れると、自宅がある丸山町へと向かった。
「凛子、これから工場に行くのよね?」
「ええ。お母様は?」
「わたしは洗濯物を干してくるわ。気を付けて行ってらっしゃい。」
「行って参ります。」
自宅を出た凛子は、勤労奉仕先の軍需工場へと向かった。
「凛子ちゃん、おはよう。」
「おはよう、咲子ちゃん。」
「この前貸していた本、後で返すね。」
「わかった。」
工場の前で親友の咲子と会った凛子は、彼女とともに工場の中へと入っていった。
「ねぇ、今日うちに来ない?咲子ちゃんに貸そうと思っている本があるの。」
「本当?」
「こら、そこ手が止まっておるぞ!」
「すいません・・」
工場の監督に怒鳴られ、凛子と咲子はくすくすと笑いながら作業に戻った。
「おかあさま、ごほん読んで~!」
「櫻子、今お母様は忙しいの。ご本なら後で読んであげるから、顕ちゃんと積み木で遊んでいなさい。」
「いや、ごほん読んで!」
いつも聞き分けが良い櫻子は、この日に限って千尋に我が儘を言って彼女を困らせた。
「さくらちゃん、おにわであそぼう。」
顕人はそう言うと、櫻子の手をひいて中庭に出て行った。
「何だか、顕ちゃんの方がお兄ちゃんみたいだねえ。」
「ええ。今日の櫻子は何処かおかしいわねぇ。」
「きっとお父さんが帰って来るから、そわそわしているんじゃないかねぇ?」
「そうでしょうか・・」
千尋は『いすず』の二階で洗濯物を干し、蝉の声に耳を澄ませながら歳三が帰って来るのを今か今かと待っていた。
午前10時30分、工場で凛子は咲子とともに早めの昼食を取っていた。
「あ~、疲れた。あの監督、わたしにだけ辛く当たるから、嫌いだわ。」
「駄目よ咲子さん、そんな事を言ったら。」
「ねぇ、今日凛子さんのお父様が帰って来られるんですってね?」
「ええ。お父様と会うのは二年ぶりなのよ。」
「そう。いつお帰りになられるの?」
「11時には帰るって、昨日うちに電報が届いたわ。」
「お父様と会ったら、何を話すつもりなの?」
「それはまだ決めていないわ。」
凛子はそう言うと、工場の壁に掛けてある時計を見た。
「土方さん、土方さんやなかですか!」
「あなたは、確か今泉さんでしたよね?お久しぶりです、お元気にしていましたか?」
「ええ。満州からお帰りになったのですねぇ。ちょっとうちでお茶でも飲んでいきませんか?お時間は取らせませんから。」
「わかりました。」
歳三が『いすず』の近くにある時計屋の前を通りかかると、店の奥から店主の今泉が出てきた。
「すいませんねぇ、今お客様に出す茶菓子がないものでして・・」
「いえいえ、お気遣いなく。今泉さん、息子さんからお便りは来ましたか?」
「いいえ。倅がここに元気な姿で帰って来る方が、手紙よりも嬉しいですよ。」
「そうですか・・」
「土方さんも、二年ぶりに満州から帰ってこられて嬉しいでしょう?」
「ええ。」
「すいませんねぇ、お時間は取らせないと言っておきながら、もう30分も話してしまいました。」
今泉はそう言うと、壁に掛けてある時計を見た。
時計の針は、午前11時を指していた。
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