数時間後、軽い熱中症にかかっていた千尋は点滴治療だけで退院できた。
「よかったな、大事に至らなくて。」
「うん、心配かけてごめんね。」
妻を気遣いながらも、歳三はソンジュとの約束を思い出し、彼女が見ていないところで溜息を吐いた。
『ヨンイル、夕食はどうするんだい?』
『外で友人と会う約束があるんだ。適当に食べてくるよ。』
『そうかい、気をつけて行っておいで。』
清子に適当な嘘を吐くと、歳三はソンジュとの待ち合わせ場所である江南のクラブへと向かった。
『ヨンイル、あなたまた来たの?』
店に入ると、華やかなドレスを身に纏ったソンヒが歳三を見ていた。
『お前、まだここで働いているのか?』
『いいえ。もう今日で辞めるのよ。今からママに挨拶しにいくところ。今後は父の傍に居たいの。』
『そうか。』
歳三とソンヒが喋っていると、ソンジュが店にやってきたところだった。
『これは、これは。渦中の人物が二人して何をしているんだ?』
『ただ世間話をしていただけだ。それで、話ってのはなんだ?』
『ちょうど良い。君も来て貰おう。』
不安そうな表情を浮かべているソンヒの手を、歳三はそっと握った。
3人は奥の部屋に入り、しばらく黙っていた。
最初に口火を切ったのはソンジュだった。
『君は彼と不倫をしていたね?』
『いいえ。彼とは大学時代に付き合っていましたが、彼とは別れましたし、よりを戻す気はありません。』
ソンジュの問いにソンヒは毅然とした様子でそう答えたが、彼はどうやら納得いかなかったようだった。
『それじゃぁ、これはどう説明するんです?』
彼はそう言うと、千尋に渡そうとしていた封筒を取り出し、その中身をぶちまけた。
そこには、歳三とソンヒが仲睦まじく食事をしている写真や、キスをしている写真が入っていた。
『これでシラを切り通せるとでも?』
『ふん、バカバカしいわ!こんなの昔の写真じゃない!あなた、一体何のつもりなの?』
ソンヒはそう言って立ち上がると、ソンジュを睨みつけた。
『ただの退屈しのぎですよ。』
『最低ね、あなた。』
ソンヒは憤慨した様子で部屋から出て行った。
歳三はじろりとソンジュを睨みつけると、彼女の後を追って部屋から出て行った。
『ヨンイル、あの人は変よ。気をつけて。』
『ああ。』
クラブを出た歳三は、学生時代によく通っていた食堂でビビンバを食べながら、ソンジュが何故自分を陥れようとしているのかがわからなかった。
彼とはロイヤル・ホテルで働いていた時から互いに反目しあっていた。
あまり彼と関わり合いになりたくなかった歳三は、日本へと戻る際形式的な挨拶だけで済ませてその後連絡も一切しなかった。
だがソンジュの方は、執拗に自分のことを追いかけている。
気味が悪い―歳三はぶるりと身を震わせて、残りのビビンバを掻き込んだ。
『じゃぁ、今度会うときは秋夕(チュソク)だね。』
『ああ、それまで元気でいてくれよ。』
『わかってるよ。』
とうとう日本へと帰る日の朝、歳三はそう言うと祖母を抱き締めて彼女との別れを惜しんだ。
『おばあちゃん、また来るからね!』
『元気でね!』
美輝子と薫は目に涙をためながら、それぞれ清子に抱きついた。
『お祖母様、短い間でしたがお世話になりました。』
『身体に気をつけるんだよ、チヒロ。』
『ええ。』
清子と別れ、4人は空港へと向かうタクシーに乗り込んだ。
GW最終日とあってか、国際線の出発ターミナルは日本人観光客でごった返していた。
「ねぇママ、夏休みにまた来るよね?」
「勿論よ。それまでにお勉強頑張ろうね!」
千尋が夫と娘達と楽しそうに話をしながら出発ゲートへと向かっていると、藩=ソンジュが彼らの前に姿を現した。
『奇遇ですね、どちらへ?』
『日本に戻るんです。』
『わたしは仕事でシドニーに行くんです。ではこれで。』
ソンジュは歳三とすれ違いざまに、こう彼の耳元に呟いた。
『お前なんか、簡単に捻りつぶしてやる・・』
明らかに挑発ともとれる言葉に、歳三は彼に掴みかかろうとしたが、千尋が歳三の腕を掴んで止めた。
「相手にするだけ無駄よ、行きましょう。」
千尋はそう言うと娘達と手を繋ぎ、歳三とともに出発ゲートの中へと入っていった。
「さっきは助かったぜ。」
「あんな人は相手にしないほうがいいの。さてと、もうすぐ出発の時間だから急がないと。」
「ああ。」
空港内のフードコートで昼食を取った歳三たちは、成田行きの便の搭乗口へと向かった。
ハン=ソンジュが何をたくらんでいるのかは知らないが、自分の家族を脅かすものは決して許さないと、歳三は千尋の隣の席に腰を下ろしながらそう思った。
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