イラスト素材提供:White Board様
千尋が背後を振り向くと、そこには長身の燕尾服を纏った男が立っていた。
「あなた、お名前は?」
「まずはご自分の名を名乗るのが礼儀では?」
「わたくしの名など、ここに居る皆さんはもうご存じではなくて?」
千尋はそう言うと、男を見た。
「それは・・」
「今わたくしのことを、世間の皆さんは金持ちに売られた華族のお嬢様だのなんだのと噂しているのでしょうね。」
「それでは、あなたがあの千尋様ですか?」
「あなたもわたくしの名をご存じなのね。」
千尋がそう言って男を見ると、彼はそっと千尋の手を握った。
「初めまして、千尋様。わたしは伊藤道夫と申します。」
「伊藤様とおっしゃるの。あなた、お幾つでいらっしゃるの?」
「今年で27になります。」
「そう・・余りわたくしと年が違わないのね。」
「といいますと?」
「わたくし、今年で29になりましたの。」
「そんな・・29には見えませんね。」
「あら、有難う。お世辞でも嬉しいわ。」
千尋がそう言って伊藤に微笑んだ時、大広間からワルツの調べが聞こえた。
「伊藤さん、お近づきのしるしとして、一曲踊ってくださらない?」
「ええ、喜んで。」
大広間で友人達と談笑していた大岩は、踊りの輪の中に千尋と見知らぬ青年が加わるのを見て、怒りのあまり絶句した。
「大岩さん、どげんしたとね?」
「千尋と踊っとる男は何者ね?」
「ああ、あいつは伊藤さんのところの次男坊たい。何でも、社会主義運動っちゅうもんにかぶれとるらしい。」
「社会主義、ねぇ・・わけのわからんもんをパーティーに招くとは、西田さんも大層変わり者たい。」
「そうやねぇ。」
千尋が伊藤と踊っていると、大広間に居る客達が自分を見つめていることに気付いた。
「皆さん、わたくし達のことを見ていますわね。」
「きっとあなたの美しさに見惚れていらっしゃるのでしょう。」
「まぁ、さっきから面白いことをおっしゃる方ね。」
千尋はそう言ってクスクスと笑うと、伊藤も彼につられて笑った。
「あなた、ご結婚は?」
「恥ずかしながら、この年で未だに独身です。」
「そう。理想が高いのでしょうね、きっと。」
「そんなことはありません。ただ、今は仕事の方が楽しくて、結婚したくないだけです。」
「お仕事は何をされていらっしゃるの?」
「新聞社で働いております。」
「そう。お仕事は楽しいのかしら?」
「大変な事が多いですが、それよりも楽しさの方が勝ります。千尋さんは何をされていらっしゃるのですか?」
「何もしていないわ。福岡に来る前、わたくしは東京の女学校で学んでいたのよ。」
「そうですか。女学校では何を学んでいたのですか?」
「英語や和歌を習っていたわ。それに、武道も習っていたわね。」
「武道を?」
「こう見えても、昔わたくしは薙刀の名手といわれた腕前なのよ。」
「ご自分で仰ることではないのでは?」
「ふふ、そうね。」
伊藤と話していると、千尋は甲府に居る歳三に想いを馳せた。
「じゃぁ、わたしはこれで。」
「ええ、御機嫌よう。」
千尋が伊藤に手を振っていると、再び誰かが千尋の肩を叩いた。
にほんブログ村