「孝、ご挨拶なさい。この方は長谷川環さんといって、お父様の古いご友人ですよ。」
「初めまして、環様。神谷孝と申します。」
ピアノから降りた孝がそう環に挨拶すると、環は彼に優しく微笑んだ。
「貴方、ピアノがお上手ね。」
「ええ。家の中に居ると何もすることがないので、楽器を弾いたりして暇を潰しております。環様は、何か楽器をされますか?」
「まぁ、楽器を弾くといってもわたしが弾くのは専ら和楽器だけれどね。夫の方が洋楽器を嗜んでいるのよ。孝君、今度お家にいらっしゃい。」
「はい。お母様、菊と環様を玄関までお送りしても宜しいでしょうか?」
「いいわよ。」
玄関ホールまで環と菊を案内した孝は、暫く環の凛とした美しさに見惚れていた。
「貴方、お母様に惚れているわね?」
「馬鹿な事を言うな。」
「あら、わたしに嘘を吐いても無駄よ。」
「孝君、また会える日を楽しみにしているわ。」
「僕もです、環様。お気をつけてお帰り下さい。」
「ええ。」
環はそう言って孝の額にキスすると、彼は顔を赤く染めて俯いた。
「あの子ったら、耳まで赤くなっていたわ。生意気な子だけれど、初心なのね。」
「菊、年上の子を揶揄うのはおやめなさい。」
「解りました、お母様。ねぇ、お外で何をお話ししていらしたの?」
「それは、子供の貴方には難しい話よ。」
「何よ、少しは教えてくださってもいいじゃないの。」
そう言って頬を膨らませた菊を見た環は、思わず噴き出してしまった。
「どうして笑うの?」
「御免なさい。余りも貴方の顔がおかしくてつい・・」
「お母様の意地悪!」
神谷邸から馬車で自宅に戻るまで、菊の機嫌は直らなかった。
「お父様、お母様ったら酷いのよ。神谷の小父様達と内緒話をして、その話をわたしに話してくださらないのよ!」
夕食後のデザートに出されたアップルパイを頬張りながら、菊が環に対する不満をそうルドルフに打ち明けていると、彼はクスクス笑った。
「菊はまだ甘えん坊のようだね。」
「お父様も、わたしを子供扱いなさるの!?」
「それをお前が言うのかい?」
ルドルフにそうやり込められ、菊は黙ってアップルパイを食べた。
「タマキ、タカシはどんな子だった?」
「年の割には聡明で、礼儀正しい子でした。菊も少しは彼を見習って欲しいものだわ。」
環が呆れたような口調でそう言って菊の方を見ると、彼女は二切れ目のアップルパイを頬張っていた。
「菊、それを食べたら歯を磨いて寝なさい。」
「解ったわ。」
菊が居間から出たのを確認した環は、ルドルフの方へと向き直った。
『今日、眞一郎様から孝君の出生に関する話を聞きました。孝君の父親は、あの信孝さんだそうです。信孝さんは、自分の家の女中が孝君を孕んだと知った時、闇医者に始末させようとして失敗したので、その腹いせに孝君を産んだ女中を縊(くび)り殺してしまったそうです。』
『まともな神経の持ち主とは思えんな。奴は今どうしている?』
『結婚して、幸せな家庭を築いているそうですよ。』
『あいつのような人間は、いつか自分がした行いの報いを受けることになる。それまで甘い新婚生活とやらを満喫していればいいさ。』
ルドルフは吐き捨てるような口調でそう言うと、グラスに残っていたワインを一気に飲み干した。
『貴方、お仕事の方は順調なのですか?』
『ああ。タマキ、今度の週末は仕事関係の集まりがあるから、空けておいてくれるか?』
『はい、解りました。』
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