『今お飲み物をお持ちしますね。』
『ええ、頼むわ。』
ファヨンが席を外すのを見たジニは、ゆっくりと千代乃の前に腰を下ろした。
『それで、わたくしに相談したい事とは何かしら、ジニさん?』
『貴方は、わたくしと兄との関係の事をどこまでご存知なの?』
ジニはそう言うと、千代乃を見た。
『貴方のお兄様が貴方を愛していらっしゃることを聞いたわ。』
千代乃がジニの質問に正直に答えると、ジニは安堵したような表情を浮かべた。
『よかった、貴方は口が堅そうね。』
ジニは少し身を乗り出すと、千代乃の耳元に何かを囁いた。
『それは、確かなの?』
『ええ。月のものが二月ほど遅れていたから、お医者様に診て貰ったの。そしたら、二ヶ月に入っているのですって。』
ジニから妊娠を告げられた千代乃は、彼女を祝福した。
『おめでとう。お腹の子の父親はどなたなの?』
『兄の子ですわ。兄に知らせたら、是非産んで欲しいと言われましたの。でも・・』
ジニの顔が急に曇った事に気づいた千代乃は、彼女が次の言葉を継ぐまで待った。
『あの人達がこの事を知ったら、黙ってはいないと思うの。』
千代乃の脳裏に、ジニの義母とその息子の顔が浮かんだ。
妾の子であるジニを子供の頃から虐げて来た彼らが、彼女の妊娠を知ったら何をしでかすのかわからない。
『お兄様は何とおっしゃっているの?』
『兄は英国に知り合いが居るの。その方に兄が相談したら、英国に来てくれとその方から言われて、わたくしも兄についていくつもりです。』
『そう。いつ英国へ発つの?』
『明朝です。だから、チヨノさんとお会いするのはこれで最後になりますわ。』
ジニはそう言って千代乃に微笑むと、おもむろに髪に挿していた簪を抜き、千代乃に手渡した。
『チヨノさん、貴方と知り合えて良かったわ。わたくしは、貴方の事を大事なお友達だと思っているの。だから、この簪を―母の形見を貴方に差し上げるわ。』
『ジニさん、大切にするわ。お兄様と―ヨンス様と幸せになってね。』
『有難う、幸せになるわ。』
ジニと千代乃が互いの手を握り合った時、ファヨンが冷えた茶を持って部屋に入って来た。
『じゃぁ、わたくしはここで失礼するわ。』
満韓楼の前でジニは車に乗ると、そう言って千代乃に向かって手を振った。
『ジニさんのお話は何だったのですか?』
『個人的なお話よ。ファヨンさん、午後の予定は何かあったかしら?』
『1時から哈爾浜花柳界組合の会合があります。夜7時からは哈爾浜ホテルでパーティーが・・』
『そうだったわね。午前中は何も予定がないから、お昼までゆっくりすることにするわ。』
『何かありましたら、呼んでください。』
『ええ、解ったわ。』
千代乃が自室に戻って読書をしていると、急に外が騒がしくなった。
『何かあったの?』
『女将さん、助けてください!』
千代乃が自室から出て中庭の方を見ると、そこにはジョンスに髪を掴まれて殴られているユソンの姿があった。
『うちの妓生に何をなさっているのですか、やめなさい!』
『余所者が口を挟むな!生意気な女を懲らしめるのにはこうしたやり方が一番なんだ!』
ジョンスはそう言って千代乃に唾を吐きかけると、ユソンの下腹を執拗に蹴り続けた。
『やめなさいと言っているでしょう!』
ジョンスの横暴な振舞いに堪忍袋の緒が切れた千代乃は、そう叫ぶなり彼の頬を拳で殴っていた。
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