※BGMと共にお楽しみください。
千尋が龍馬と出会ったのは、鈴江と共にある料亭のお座敷に呼ばれた時だった。
そのお座敷の客は長州の志士で、泥酔した彼はやがて幕府や新選組に対して怨嗟の言葉を吐き出した。
「会津藩御預かりの身だかなんだか知らんが、我らを一度京から追い出しただけで得意げな顔をしやがって、所詮は田舎百姓の集まりに過ぎんだろうが!」
「まぁまぁ、そぎゃんこと言わんでも、おんしもあやつらと出自はそう変わらんぜよ。」
龍馬がそう言って相手を宥めようとしたが、逆効果になってしまった。
「何じゃと、貴様!わしを愚弄する気かぁ!」
酒と怒りで赤らんだ顔を龍馬に向けたその志士は、手に持っていた鉄扇を龍馬の顔に振り下ろそうとした。
その時、千尋は志士の手からそっと鉄扇を奪い取り、静かにその場で舞い始めた。
最初は何が起きたのか解らずに呆然としていた鈴江と他の志士達だったが、やがて鈴江は置屋から持参した三味線を千尋の舞に合せて奏で始めた。
舞い終わり、千尋は恍惚とした表情を浮かべながら自分を見つめるその志士に、こう言って鉄扇を返した。
「扇は人を撲(ぶ)つ為のものやおへん、美しく舞う為のものどす。」
「いやぁ、大した妹分を持ったのう、鈴江!」
「おおきに。」
お座敷が終わるころ、先程龍馬と志士達の間に流れていた険悪な空気は消え失せていた。
機転を利かして険悪な空気を和やかなものへと変えた千尋の美しさと賢さに、龍馬は惚れてしまったのだった。
「まぁ、そんな事もありましたなぁ。」
「あん時のおんしは、戦国の猛者共よりも勇敢だったぜよ。千尋、舞妓を辞めてわしの妻になっちゃくれんかえ?」
「ありがたい申し出どすけれど、お断りいたします。うちにはもう、心に決めた人がおるんどす。」
「かぁ~、わしの求婚を袖にするその態度、ますます惚れたぜよ!」
「おおきに。」
お座敷で客から掛けられる言葉に素直に喜んではいけない―舞妓として祇園で潜入捜査をしている上で、千尋はそう学んだ。
他人との会話の駆け引き、そしていかに相手を喜ばせるのかという、人心掌握術を千尋はすっかり身に付けていた。
舞妓はただ舞を舞って、客に愛想笑いを浮かべながら酌をするだけが仕事ではない。
お座敷という夢の世界で、いかに客を満足させ、寛いで貰えるかどうかで、自分自身の評価が、しいては祇園という花街の評価が決まるのだ。
坂本龍馬という男を自分に惹きつけさせる為に、千尋は彼に何度愛の言葉を耳元で囁かされてもそれを袖にした。
案の定、龍馬はますます千尋に夢中になった。
「もう酒がなくなってしもうたのぉ!」
「うちが持ってきます。」
千尋はそう言うと、振袖の裾を軽く捌いて立ち上がり、座敷から出て調理場へと向かう廊下を歩き始めた。
「あら、誰やと思ったら鈴江の妹舞妓やないの。」
廊下の向こうから耳障りな声が聞こえて来たので千尋がそちらの方を見ると、そこには別の置屋の芸妓と舞妓が自分の進路を妨害するかのように立ちはだかっていた。
「おねえさん、こんばんは。」
千尋は彼女達に軽く会釈をすると、そのまま彼女達の脇を通り抜けようとした。
「あんた、余りええ気にならん方がええで?」
「そうや、新入りの癖に悪目立ちし過ぎや。」
千尋のお座敷に誰が来ているのかを彼女達は知っているのか、去り際彼女達は千尋の肩にわざとぶつかりながら嫌味を吐いていった。
華やかな世界こそ、その裏には数々の陰謀と愛憎が渦巻く泥沼である―千尋はそんな事を改めて思いながらも、江戸に居た頃の事を少し思い出していた。
“お前など要らない、この忌み子の混血め!”
脳裏に浮かぶのは、幼い自分を虐げている鬼女のような顔をした義母の姿だった。
*次回から、幕末の千尋の幼少期の話が始まります*
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