彼女が経営するロイヤル・ホテルは、韓国で五指に入るほどの名門ホテルであったのだが、その経営が大きく傾いたのはあのリーマンショック後だった。
スヨンは何とか経営を立て直したものの、彼女が資金繰りに奔走している間に長男・ヨンナムが地方のホテルへと移り、その際ソウル本社のスタッフを引き抜いてしまい、その所為で深刻な人手不足となってしまったのだという。
『そうですか、そんな事が・・息子さんとは連絡を?』
『取ってはいないわ。今にして思えば、わたしはあの子の事を甘やかしてしまったのかもしれない。母子家庭で、離婚してしまって寂しい思いをさせてしまたっという負い目を感じていたからね。』
スヨンはそう言って溜息を吐くと、柚子茶を飲んだ。
『どう、ヨンイルさん。うちのホテルで働いてみない?』
『急にそのようなことをおっしゃられても・・わたしは何の資格もありませんし、接客業は全くの素人です。却って皆さんのご迷惑になるのでは?』
『誰だってはじめは素人よ。わたしだってホテルの経営を学んでいる時は右も左もわからなかった。ロイヤル・ホテルを大きく育てたのはひとえにわたしが努力したから。ヨンイルさん、すぐにとは言わないわ。あなたのような優秀な人材をわたしは欲しているのよ。』
歳三はスヨンの言葉に感銘を受けながらも、自分がホテルマンとして働けるかどうか不安を抱いていた。
『暫くの間、考える時間をくださいませんか?』
『そう。じゃぁ一週間後、またこちらに伺うわ。その時はあなたの返事を待っているわ。』
スヨンはそう言って立ち上がると、意志の強い瞳で歳三を見た。
『お忙しい中、わざわざ来ていただきありがとうございました。』
『あなたに会えて嬉しかったわ、ヨンイルさん。次はホテルで会いましょう。』
スヨンが差し出した右手を握った歳三は、玄関先で彼女を見送った。
「トシ兄ちゃん、今の話受けると?」
家の中に戻ると、千尋がそう言って歳三を見た。
「あぁ、受けようかと思ってる。だが俺がホテルマンなんて務まるかな?」
「トシ兄ちゃんなら大丈夫よ、自信持って。」
千尋は迷う夫の背中を押した。
四日間の日程を終え、千尋と歳三は一旦日本に帰国することになった。
「そうですか・・韓国で暮らすことになったんですか。そりゃぁ、急なお話ですねぇ。」
「申し訳ありません、まだこちらに来て日が浅いのに。」
歳三がそう言って頭を下げると、校長は渋い顔をしていた。
「ま、もう決まったことなんだから仕方ないでしょうね。こっちは新しい先生を探しますから。」
校長はもう歳三と関わりたくないといった口調でそう言うと茶を飲んだ。
「どうやったと?」
「あっさりと韓国行きを許してくれたよ。あの校長は初めから反りが合わなかったけど、まぁこれで良かったかな。」
ベランダで煙草を吸いながら、歳三はそう呟くと溜息を吐いた。
「これからやねぇ、韓国で暮らすことになるのは。」
「ああ。お前にはまた苦労させるな、千尋。」
「何言うとうと。うちはいつでもトシ兄ちゃんの味方やから。」
千尋はそう言うと、歳三に抱きついた。
引越しの準備はあっという間に終わり、マンションの部屋を引き払った後、千尋は美津子に挨拶に行った。
「そう、気をつけてね。」
「うん。美津子さんも、元気な赤ちゃん産んでね。」
「ありがとう。」
美津子と別れ、千尋がエントランスへと向かうと、そこにはベビーカーを押していた歳三が待っていた。
「そろそろ行くか?」
「うん。」
こうして二人は日本を離れ、韓国で暮らすこととなった。
『お帰り、待ってたよ。長旅で疲れただろう?お風呂沸いてるから入りな。』
『はい。』
再び清子の家を訪れた二人に、彼女は温かい風呂とご馳走を用意して待っていた。
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