安倍邸で華やかな宴が開かれている頃、吉野の山奥では一人の男が祭文を唱えていた。
彼の前には、光明の名が書かれた藁人形が置かれてあった。
(もうすぐだ・・もうすぐ、呪いが完成する!)
護摩壇で仄かに照らされた男の左頬には、醜い火傷の痕があった。
「兄上、今日は疲れましたね。」
「ああ。父上たちが集まると、碌な事がないな。」
宴が終わり、光明の部屋で寛いでいた光利は、そう言うと烏帽子を脱いで結っていた髪を解いた。
「兄上、わたしはこれからどうすればよいのでしょうか?」
「何も深く考える事はない。お前はいつも通りの生活を送っていればいい。」
「わかりました。兄上、実は兄上にご相談したいことが・・」
光明がそう言って兄の方を見ると、光利は急に喉を掻き毟り苦しみ出した。
「兄上?」
「逃げろ・・光明・・」
「兄上、しっかりしてください!」
「どうした?」
「父上、兄上が突然苦しみ出して・・」
光安は光利の傍に跪くと、彼の身体に漆黒の蛇が巻き付いているのが見えた。
「光明、光利は何者かに呪詛を掛けられている。」
「そんな・・」
「落ち着け、今すぐ加持祈祷の準備をしろ。」
「わかりました。」
部屋を出た光明が加持祈祷の準備をしようとすると、護摩壇の前に一人の男が立っていることに気づいた。
結い上げていない髪はほうぼうに乱れ、男が纏っている赤い狩衣も襤褸(ぼろ)同然だった。
「何者だ!」
「そなたが、あの女の腹から生まれた子か?」
男はそう言って光明を見た。
その目は、まるで生気を宿していない死者のそれに似ていた。
「ようやく見つけたぞ・・」
「やめろ、近づくな!」
光明は男を睨むと、祭文を唱え始めた。
「そんなものを唱えても、無駄だ。」
男は口端を歪めて笑うと、右手で光明の頭を掴んだ。
その瞬間、光明の脳内に様々な映像が浮かんでは消えた。
―やはり、あやつは殺すべきだったのだ!
暗闇の中から響く男の野太い声を聞いた後、光明は意識を失った。
「漸く目覚めたか。」
洞穴の天井から滴り落ちた雫を頬に受け、光明が目を開けると、そこには先ほど安倍邸で見た男が護摩壇の前に座っていた。
「ここは何処だ?」
「我が家だ。」
「貴様、兄上に何をした!?」
「わたしは何もしておらぬ。あの蛇は何者かがお前の兄に向かって放ったものだ。」
「貴様、何者だ?」
「そなたに名乗るほどの者ではない。」
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