環がこの世を去ってから5年もの歳月が経った。
「菊、12歳の誕生日おめでとう。」
「有難う、お父様。」
この日、菊の12歳の誕生パーティーが自宅で華やかに開かれた。
「菊さん、すっかり美人になったわね。」
「ええ。」
凛子は孝の伴奏に合せて歌っている菊の姿を見ながらルドルフとそんな事を話していると、そこへ静がやって来た。
「旦那様、楢崎様という方がお外にいらっしゃいますが、どうなさいますか?」
「またあの女か・・」
ルドルフはそう言って舌打ちすると、静に富貴子を大広間に通さないように命じた。
「楢崎さんという方、確か環さんの女学校時代の同窓生ではなくて?」
「ええ。ですが妻とは別に親しくもない間柄でした。寧ろ、敵対していたと言ってもいいでしょう。」
「まぁ、そんな方が何故貴方に会いに来られたのかしら?」
「さぁ・楢崎家は最近慣れない商売に手を出して破産寸前だという噂を聞きました。それで、金の無心にでも来たんでしょう。」
菊がアリアを歌い終わると、招待客達は盛大な拍手を彼女達に送った。
「菊、とても上手だったよ。」
「有難う、お父様。」
「菊ちゃん、小学校を卒業したらどうするの?」
「まだ考えていません。でも、もっと歌を勉強したいです。」
「そう。貴方なら、ウィーンにすぐ留学できると思うわ。」
凛子がそう言って菊に優しく微笑んだ時、一人の男が二人に近づいて来た。
「初めまして。わたくし、藤枝女学校の校長をしております、伊勢崎と申します。貴方の素晴らしい歌声を拝聴し、是非我が校に入学して貰いたいと思いまして、お声を掛けた次第でございます。」
「初めまして、長谷川環と申します。父を呼んで参ります。」
菊は伊勢崎に挨拶して彼に一礼すると、そのままルドルフの元へと向かった。
「お父様、あちらの方がお父様とお話ししたいって。」
「解った、すぐ行くよ。」
ルドルフが菊に連れられて伊勢崎の元へと向かうと、彼は凛子と談笑していた。
「初めまして、ルドルフ=フランツと申します。」
「貴方が、菊さんのお父様ですね?わたくしは藤枝女学校の校長を務めております、伊勢崎と申します。貴方のお嬢さんの歌声を拝聴し、是非お嬢さんを我が校に入学して貰いたいと先ほどお願いした次第でございます。」
「そうですか、今は娘を貴校にご入学させるのかどうかは即決できませんので、暫く時間を貰えないでしょうか?」
「解りました。ではまた日を改めてお会い致しましょう。」
数日後、ルドルフと伊勢崎は新橋にある料亭の一室で会食した。
「娘を、ウィーンへ留学させると?」
「ええ。貴方のお嬢さんは素晴らしい才能を秘めています。クラッシック音楽の本場である欧州にお嬢さんを留学させ、そこでプロの音楽家から基礎を教えて貰ったら、お嬢さんの才能は開花するに違いありません。」
「そのお話は嬉しいのですが、娘はまだ12になったばかりです。単身ウィーンへ留学させるとなると、親として色々と心配で・・」
「貴方のお気持ちは充分に解ります。今すぐにお嬢さんをウィーン留学させるとは申し上げておりません。」
伊勢崎はそう言って茶を一口飲むと、ルドルフに微笑んだ。
伊勢崎との会食を終えてルドルフが車から降りて自宅へと入ろうとした時、彼の前に富貴子が現れた。
「やっとお会いできましたわね、ルドルフ様。」
「しつこい方ですね。何度訪ねて来られても、貴方に貸すお金はありませんよ。」
ルドルフは冷たい視線を富貴子に向けてそう言うと、彼女は悔しそうに唇を噛んだ。
「旦那様、どうかなさいましたか?」
「静さん、警察を呼んでくれ。不審者が庭に入り込んだと。」
「かしこまりました。」
「酷いですわルドルフ様、困った友人にお金を貸すのが親切というものではありませんか?」
「お言葉ですが、貴方とは一度も友人だと思ったことはありません。警察が来る前にどうぞお引き取り下さい。」
ルドルフは富貴子の鼻先でドアを閉めた。
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