「兄様、どうかなさいましたか?」
「いや、何でもない。千尋、今日も薙刀の稽古に行くのか?」
「ええ。」
「外は寒いだろうから、少し厚着をしておけ。」
「わかりました。」
その日は、季節外れの大雪が降っていた。
(雪か、参ったなぁ・・)
千尋は溜息を吐きながら番傘を広げ、家から出て道場へと向かった。
「先生、こんにちは。」
「千尋、こんな雪の中、よく来てくれたな。」
正臣はそう言うと、千尋に微笑んだ。
「春だというのに、こんなに大雪が降るなんて、何かの予兆かもしれませんね。」
「ああ、そうだな。千尋、今日は稽古を早めに終わらせるから、後で家に来い。」
「かしこまりました。」
薙刀の稽古の後、千尋は道場に隣接する正臣の自宅へと向かった。
「奥方様、こんにちは。」
「あら、千尋さんいらっしゃい。」
千尋が正臣とともに玄関先で草鞋を脱いでいると、正臣の妻・雪が部屋の奥から現れた。
「今日は雪が朝から降っておりますね。」
「ええ。そうだ千尋さん、今瑠璃の桃の節句の宴があの子の部屋で開かれているのよ。千尋さんも宴に出てくださらないこと?」
「男のわたくしが、お嬢様の宴に顔を出したら、お嬢様が気を悪くされるのではありませんか?」
「そんなことないわ。あの子は、あなたのことが好きなのだから。」
「それでは、奥方様のお言葉に甘えさせていただくことにいたします。」
千尋の言葉を聞いた雪は、彼に笑顔を浮かべると、娘が居る部屋へと彼を案内した。
「瑠璃、千尋さんが来ましたよ。」
「千尋さん、いらっしゃい!」
千尋が雪とともに正臣の娘・瑠璃の部屋に入ると、美しい振り袖姿の瑠璃は千尋の顔を見ると座布団から立ち上がって彼の元へと駆け寄って来た。
「瑠璃ちゃん、こんにちは。その着物、とても似合っていますよ。」
「主人がわざわざ、この子の為に一流の職人に頼んで作って貰ったものなのですよ。」
「まぁ、そうでしたか。先生は、瑠璃さんのことを大層可愛がっておいでなのですね。」
「ええ。この子が嫁に行く年になったら、あの人がどうなってしまうのか心配だわ。」
雪はそう言って苦笑しながら瑠璃の髪に簪を挿していると、部屋に正臣が入ってきた。
「雪、暫くわたしは出かけて来るから、留守を頼む。」
「あなた、どちらへ行かれるのですか?」
「どうやら桜田門外で、彦根の井伊家老が水戸の脱藩浪士たちに襲われたらしい。」
「まぁ・・」
「雪、わたしが帰って来るまで、家の戸締りはしっかりとして、怪しい者は絶対に家の中には入れるなよ。」
「わかりました。あなた、お気をつけて行ってらっしゃいませ。」
「先生、わたくしも参ります。」
千尋はそう言うと、正臣の後を追い、彼とともに外に出た。
「さっきの話は、本当なのですか?」
「ああ。うちの門下生の一人が、桜田門外の前を通り過ぎようとしている井伊家老の籠を水戸の脱藩浪士どもが襲っているのを見たそうだ。」
「これから日本はどうなるのでしょう?」
「さぁ・・それはわたしにはわからん。ただ、井伊大老が死んだことで、日本は動乱の渦に巻き込まれてしまうのかもしれん。」
「そうですか・・」
1860(安政7)年3月3日―この日、徳川幕府の大老であり彦根藩藩主・井伊直弼は、桜田門外で水戸の脱藩浪士らに襲撃を受け、命を落とした。
この事件は、“桜田門外の変”と呼ばれた。
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