雅信に千尋が連れて行かれたのは、繁華街の中にある一軒のバーだった。
「君と土方さんとの関係は?」
「別に、特別な関係ではありません。」
「ふぅん、そう。」
雅信は千尋の答えを聞いて少し面白くなさそうに眉をしかめた。
「では、わたしはこれで。」
自分のジュース代をカウンターに置くと、千尋はバーから出て行った。
時計を見ると、もう夜の11時を過ぎてしまっている。
終電にはもう間に合わない。
どうしようかと思いながら千尋が歩いていると、一人の女が彼に話しかけてきた。
「千尋・・千尋なの?」
「母さん?」
千尋が煙草を咥えている女性を見ると、彼女は確かに千尋の実母・さなえだった。
「あんた、どうしてこんな所に居るの?うちの店に来てよ。」
「わかった・・」
さなえは千尋がまだ3歳の時に男と駆け落ちして家を出て以来、消息が掴めなかった。
彼女が経営するスナックに入ると、そこにはカウンター席とソファ席があり、カラオケの機械があった。
ソファ席はほぼ満席で、カウンター席には一人で飲んでいる男性客だけが座っていた。
「何か飲む?」
「いいえ。それよりもまだ夕飯を食べてないので・・」
「そう。じゃぁここから好きなもの選んで。」
かなえが差し出したメニュー表を開いた千尋は、ミックスピザを頼んだ。
「ねぇ、今あんた何してんの?」
「看護師です。さっきそこの院長先生に絡まれてしまって。」
「そう。お父さんはどうしてるの?」
「余り実家に帰っていないので、どうしてるかわかりません。それよりも、母さんは今何処に住んでいるんですか?」
「ここの近くよ。お店があるからね。それにしてもあんなに小さかったあんたが看護師とはねぇ。」
かなえがハンカチで涙を拭った時、左手薬指に指輪をつけていることに千尋は気づいた。
「ああ、これ?あたしね、あの時の男とは結婚してないのよ。これはお父さんとお母さんとの結婚指輪よ。あの人には許して貰えるかどうかわからないけどさ、どうしても捨てられなくてねぇ・・」
「そうなんですか。」
千尋がそう言って水を飲んだとき、携帯が鳴った。
「もしもし?」
『千尋?』
携帯にかけてきたのは兄の聡史(さとし)だった。
2年前に結婚し、妻の実家がある熊本で農業をやっている。
「兄さん、どうしたの?何かあった?」
『明後日東京で用事ができてさ、会えないか?』
「大丈夫だけど。」
突然の兄からの電話に首をかしげながら、千尋が携帯を閉じるとさなえがカウンター越しに千尋を見つめていた。
「今の、聡史から?」
「ええ。」
「ねぇ千尋、お父さんと聡史は、あたしの事どう思ってんのかな?勝手に家出したあたしのこと、まだ許してくれないわよね・・」
そう言ったさなえの横顔は、どこか寂しかった。
「それじゃぁ、また来ますから。」
「うん、待ってるわ。」
スナックの前でさなえと別れ、自宅マンションに戻った千尋は、部屋に入るなりベッドに横になった。
その時、リビングの電話がけたたましく鳴った。
「もしもし、岡崎です。」
相手は無言のままだった。
薄気味悪いので、千尋はそのまま受話器を置いた。
すると再び電話が鳴った。
「もしもし?」
『千尋か?』
「お父さん、どうしたの?」
『最近帰ってこないが、仕事忙しいのか?』
「うん・・今訳ありの患者さんの担当になってて・・少し落ち着いたら実家に帰るから。」
『そうか、身体に気をつけるんだぞ。』
「うん、おやすみ。」
翌朝、千尋が出勤すると職員用の入り口に人だかりができていた。
何だろうなと思いながら彼が病院へと入ろうとしたとき、その人だかりが彼の方へと押し寄せてきた。
「あなたが土方さんの噂の新恋人ですか?」
「土方さんとはお付き合いされておられるんですよね?」
「結婚の約束などはされていらっしゃいますか?」
矢継ぎ早に質問を浴びせる記者達を前に、千尋は逃げるようにしてその場から立ち去った。
にほんブログ村