「陸君、どうしてここに? ママは一緒じゃないの?」
「お父さん、お父さん!」
千尋の問いには答えず、陸は一心不乱に集中治療室のガラスを平手で叩いていた。
「お父さん、ねぇ起きてよ!」
「陸君、お父さんは今お薬を飲んだから眠っているだけなんだよ。そんなにガラスを叩いたらお父さんが起きちゃうから、あっちに行こうね。」
「やだぁ、お父さんと話すんだあ~!」
千尋が陸をなだめようとすると、彼は半泣きになりながらガラスを叩いた。
「ね、もう行こう?」
「僕が行ったら、お父さん死んじゃう!」
陸は頑として、集中治療室の前から離れようとはしなかった。
ふと周りを見ると、看護師や患者が迷惑そうな視線を彼に送っていた。
「お父さんは死なないから、お兄さんと一緒にジュースでも飲もう?」
「本当に、死なないの?」
「死なないよ。」
千尋が差し出した手を、陸は握ってきた。
数分後、病院内にある食堂で、二人は遅めの昼食を取ることにした。
「陸君は何食べたい?」
「僕、オムライス!」
「そう。」
食券を買った千尋が陸と手を繋ぎながら食堂に入ると、そこには仕立ての良いスーツを着た男が彼らに気づいて近づいて来た。
「岡崎千尋さん、ですね?」
「ええ、そうですが・・あなたは?」
「申し遅れました、わたくしはこういう者です。」
男は千尋に一枚の名刺を取り出した。
“弁護士 東恭介”と、そこには流麗な文字で書かれていた。
「弁護士さんが、一体何の用ですか?」
「あなたに、お話があります。陸君の親権について。」
「陸君の親権は、奥様が取られたと伺っておりますが?」
千尋がそう言った時、陸が千尋の背中へと隠れた。
「陸君、久しぶりだね。」
東弁護士は笑顔を浮かべながら陸に近づこうとしたが、彼は千尋の腰にしがみついて俯いたままだった。
「ここでは人目があります。」
「では、後日改めて伺います。それでは。」
東弁護士はそう言うと、食堂から出て行った。
「あのおじさん、嫌い。」
「東さんのこと?何か陸君に、ひどい事でもしたのかな?」
「僕、お父さんと暮らしたかったのに、あの人がお父さんが貧乏だから僕を引き取れないって言ったんだ。お祖父ちゃんも僕がお父さんと暮らしたら、碌な人間になれないって・・みんなお父さんの悪口ばっかり言ってる。」
スプーンを握り締めている陸の手が、小刻みが震えていた。
歳三と彼の妻との間で、陸の親権について激しく揉めたと総司は言っていたが、実際は想像できぬほど陸は両親との間で板挟みとなって苦しんでいたのだろう。
「陸君は、どうしたいの?」
「仲直りして欲しい。3人で一緒に暮らしたいよ。ねぇ、僕が居るから、二人は仲直り出来ないの?」
「えっ・・」
「昨日お母さんとお祖母ちゃんが喧嘩してるの、聞こえたんだ。お祖母ちゃんは、“あんたが妊娠していなければあんな男とは結婚させなかった”って言ってたの、聞いちゃったんだ・・僕の所為で、二人が喧嘩してるんだよね?」
自分の存在を否定されることは、子どもにとって一番つらい事だ。
「お父さんね、陸君が居るから死ねないって言ったんだよ。今は無理だけど、お父さんに会おうか?」
「いいの?」
歳三達夫婦の間に何があったのかは知らないが、陸が父親の事を大好きなのはわかる。
だからこそ、千尋は歳三と陸を会わせたかった。
「陸、来てたのか?」
歳三と陸が会えたのは、彼が一般病棟に移ってからーあの火災から数日後のことだった。
「陸、お前塾はいいのか?」
「行きたくないもん。ねぇお父さん、僕お母さんと暮らさないと駄目?」
「陸は俺と暮らしたいのはわかるんだけどな、お母さんには陸しか居ないんだ。わかるよな?」
「わかんないよ、そんなの。お父さんと一緒に暮らしたいんだもん!」
陸は癇癪(かんしゃく)を起こし、歳三に抱きついた。
「済まねぇな、お前にこんなこと・・」
「いえ。それよりも、一体どうして・・」
「離婚したかって聞いたいんだろ?少し長い話になるだろうが・・」
病院から外泊許可を貰った歳三が、電車で千尋と共に歳三の妻・理紗子の実家へと向かう途中に、理紗子との馴れ初めを話し始めた。
「あいつとは、俺がまだ下っ端選手の頃に知り合ってな。あいつは旧家のお嬢様で、向こうの両親は身分違いだ何だのってそりゃぁ交際に反対されたさ。けど、理紗子の腹ん中に陸が居るって判った時、正直逃げちまおうかと思ったぜ。」
歳三は貧乏ゆすりをしながら、溜息を吐いた。
「けど、あいつは産みたがってた。子どもが出来たからって向こうの親は許しちゃくれなかったさ。それどころか、“子どもが女なら孫とは認めん”とか抜かしやがったんだ。あいつの実家は古臭い考えがあってな・・」
歳三は滔々と、理紗子の両親との確執を話し始めた。
「それで、土方さんはどうしたいんですか?このままだと、陸君を更に傷つけることになりますよ。」
「俺は、出来る事なら陸を引き取りたいと思ってるさ。だが・・」
歳三がそう言った時、スーツの上着に入れていたスマートフォンが鳴った。
「もしもし、俺だ。何だって、陸が居なくなった!?」
「一体どうされたんですか?」
「陸が居なくなった。家政婦が目を離した隙に、裏庭から出て行ったらしい。」
「そんな・・」
陸の身を案じた二人を乗せた電車は、理紗子の実家がある駅へと着いた。
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