「まさか、ここで殺人事件が起きるなんて思いもしませんでした。」
数分後、千尋は部屋を訪ねて来た年配の刑事にコーヒーを出すと、そう言って溜息を吐いた。
「先輩、遅くなりました!」
「お前、遅いぞ!」
千尋がソファに座ろうとした時、ドアが開いてリビングに若い男が入ってきた。
「あの、そちらの方は?」
「すいません、こいつは内田といって、わたしの相棒です。自己紹介が遅れました、わたしは新宿署の丸岡と申します。」
「わたしは岡崎千尋と申します。西田総合病院で看護師をしております。」
「そうですか。岡崎さん、殺された太田さんとはどういう関係でした?」
「どういう関係と申しますと・・太田さんとは、同じマンションの住民同士で、それ以上の関係ではありませんでした。それにあの人、余りご近所づきあいをされない方でしたから・・」
「そうですか。じゃぁ聞きますが、太田さんがご近所の方達と何かトラブルを抱えていたとかは・・」
「そうですねぇ、太田さんはルーズな方で、ゴミ出しのルールを守らなくて、良く管理人さんや他の住民の方と揉めていました。それにここのマンションは月2回溝のドブ浚(さら)いを近所の方達と総出でするんですけどね、その行事に一度も太田さんは出なかったんです。せめて一度だけでも参加して下さいとわたしが太田さんに言いましたけど、無視されました。」
二人の刑事達に太田の事を話しながら、千尋は彼が殺される数週間前の事を思い出していた。
「馬鹿野郎、俺が頼んだ物と違う物を買ってきやがって!」
その日の朝、千尋が陸と歳三の為に弁当を作っていると、突然太田の怒鳴り声が12階から聞こえた。
彼は些細な事で妻によく暴力を振るっていた。
千尋達が住んでいるのは15階で、太田夫妻が住む部屋とはかなり離れていたが、彼の怒声はマンションの最上階まで響いていた。
「相変わらずうるせぇなぁ、あいつ。朝からいい迷惑だぜ。」
「ねぇお父さん、太田さんの奥さん、どうして離婚しないの?毎日旦那さんに殴られて、奥さん平気なのかなぁ?」
「さぁなぁ。夫婦の事なんか、ガキのお前ぇにはまだわからねぇよ。」
「何だよ、またそうやって僕を子ども扱いして!」
「へん、そう言われて悔しいのなら、早く大人になるんだな!」
怒声を聞いた後、千尋がゴミ袋を両手に提げながらエレベーターに乗り込むと、そこへ顔の右半分を赤紫色に腫らした太田の妻が乗って来た。
「すいません、またお騒がせしちゃって・・」
「いいえ。」
「うちの人、いつもわたしには優しいんですよ。この前のわたしの誕生日に、ダイヤのネックレスを買ってくれたんです。」
「へぇ、そうなんですか・・」
「あの人は、わたしが支えないといけないんです。」
そう言った太田の妻は、千尋に寂しげな笑みを浮かべながら、一足先にエレベーターから降りていった。
「岡崎さん、どうかされましたか?」
「いえ・・あんな事があって、太田さんの奥さんは今どうされているのだろうと思いまして・・」
「岡崎さん、太田さんは独身ですよ?」
「え・・けどわたし、太田さんが奥さんを連れて近所のスーパーで買い物をしているところを何度か見ましたよ?」
「それは、本当ですか?」
「ええ。それに事件の数週間前に、わたし太田さんの奥さんとエレベーターで会いました。太田さん、奥さんにいつも些細な事で怒鳴り散らして、暴力を振るっていたんですよ。その時奥さんと会った時、彼女顔の右半分に酷い痣をつくって・・」
「貴重な情報を教えて下さって、ありがとうございます。我々はこれで失礼致します。」
二人の刑事は、コーヒーを一口も飲まずに、リビングから出て行った。
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