『ルドルフ様、バルカンの方で一週間前に暴動が起きたことはご存知で?』
『ええ、存じ上げておりますよ。』
国内情勢―特に常に民族問題で火種を抱えているバルカン半島情勢について、ルドルフはいつも目を光らせている。
彼の地には、幾つもの言語や文化、宗教や民族などが入り乱れ、混沌の坩堝(るつぼ)と化している。
それが環とどう関係があるのか―そう思いながらルドルフがリーヒデルトの方を見ると、彼は上着のポケットから一枚の新聞記事を取り出した。
そこには、フロイデナウ競馬場内のレストランで仲睦まじく昼食を取るルドルフと環の写真が映っていた。
『いつの間にこんな物が・・』
『新聞記者は、皇室関係の醜聞に対して嗅覚が鋭いのです。特にルドルフ様、あなたとタマキとのロマンスを面白おかしく書く連中がこれから後も絶たないでしょう。』
リーヒデルトは嬉しそうな口調でそう言うと、新聞記事の四隅をきちんと折り畳んで上着の内ポケットにしまった。
『その新聞記事と、バルカンで起きた暴動と一体どんな関係が?』
『実は、バルカンで暴動を起こした、正しく言えばそれを扇動した者が、タマキを狙っているという噂を聞きました。』
リーヒデルトの話によれば、バルカンで暴動が起きた日の夜、ウィーン市内の大衆酒場で数人の男達が環の事を話していたという。
『彼らは、周囲を気にしているようで、時折“拉致”や“監禁”といった物騒な言葉がわたしの耳に入ってきました。暫くタマキに護衛をつけたらいかがでしょうか?』
『それはご親切にどうも。』
『いいえ。』
リーヒデルトが少し腰を浮かせてソファから立ち上がろうとした時、執務室にコーヒーカップを載せた盆を持った環が入って来た。
『もう、お客様はお帰りですか?』
『あなたが、タマキ?』
『はい、そうですが・・』
『噂には聞いていましたが、美しい方ですね。』
リーヒデルトの執拗な視線を感じ、環は一歩彼から後ずさった。
『ではルドルフ様、わたしはこれで失礼致します。』
執務室のドアが閉まり、環は近くのテーブルにコーヒーを載せた盆を置いた。
『ルドルフ様、これからヴァレリー様と出かけてきます。』
『そうか。タマキ、今日からお前に護衛をつけることにした。』
『大丈夫です、武道の心得がありますし・・』
『念の為だ。いいか、必ず単独行動はとるなよ、わかったな?』
『はい・・』
ルドルフに半ば気圧(けお)されるように、環は彼の言葉に頷いた。
(さっきのルドルフ様、何処か様子が変だった・・さっきあの人と一体何を話していたのだろう?)
『タマキ、どうしたの?』
『申し訳ありません、ヴァレリー様。少し考え事をしておりました。』
ホーフブルク宮を出た環は、マリア=ヴァレリー達とともにウィーン郊外で開催されているサーカスへと向かった。
サーカスの天幕(テント)の中で演技をする虎や象、縞馬達を見た環は、ヴァレリーとともにはしゃいだ。
『すごく楽しかったわぁ~、今度はお兄様も連れて行きたいですわ。』
『それはいいですね。今度、ルドルフ様もお誘い致しましょう。』
サーカスの公演が終わり、馬車へと戻ろうとした環は、家宝の懐剣を天幕の中に置き忘れてしまったことに気づいた。
『タマキ、何処へ行くの?』
『忘れ物を取りに行って参ります。すぐに戻りますから心配しないでください。』
ヴァレリー達に背を向け、天幕へと向かう環の姿を、近くの茂みから数人の男達が見ていた。
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