「瑞姫(みずき)、本当にいいのか?」
「ええ、お父様。もう決めたことです。」
真宮家のダイニングルームで、瑞姫はそう言って当主である父・栄祐(えいすけ)を見て次の言葉を継いだ。
「もうこちらへは帰りません。生活費は自分で稼ぎます。」
「瑞姫・・」
栄祐は何かを言いたそうに口をもごもごと動かしていたが、彼の隣に座っていた継母・顕枝(あきえ)が代わりに口を開いた。
「まぁ瑞姫さん、何も大学なら家から通える範囲のところを受験したらよろしかったのに、何故あんな遠方に・・」
「あそこなら声楽が学べますから。それに昔、夢を誰かさんに潰されるような事は決してないでしょうからね。」
瑞姫がそう言って継母を見ると、彼女は口端をきつく結んで俯いた。
「盆と正月には必ず帰ってくるんだぞ。それに女の1人暮らしは何かと物騒だから・・」
「大丈夫です、お父様。下宿先のマンションはセキュリティが高いところに決めましたから。わたしは荷造りがありますので、これで失礼。」
瑞姫はさっと椅子から立ち上がると、父に背を向けてダイニングから出て行き、2階の自分の部屋へと向かった。
ドアを開けて彼女が部屋の中に入ると、そこには引っ越し用の段ボール箱が所狭しと置かれていた。
高校を卒業した瑞姫は、首都圏内にある女子大に合格し、大学から近いマンションで初めて1人暮らしをすることになった。
実母・黒羽根が瑞姫を出産直後に亡くなって以来18年間、瑞姫は継母・顕枝の手で育てられたが、彼女とは全く反りが合わず、いつしか義理の母娘の仲は完全に冷え切ってしまっていた。
中学時代、瑞姫は宝塚を目指してバレエや声楽、英会話や日本舞踊のレッスンに毎日励んでいたが、栄祐も顕枝も彼女の宝塚受験に反対した。
「スターになれるのはほんの一握りよ。それに華やかな世界には裏があるっていうじゃない。いじめも酷いらしいし、瑞姫さんがやっていけるような所じゃないと思うのよ。」
口調こそは穏やかそのものだったが、義理の娘が己が敷いたレールの上を歩かない事に対して、顕枝は遠回しに非難していた。
両親の反対に遭ってでも宝塚を受験しようと決意を固めていた瑞姫だったが、栄祐が交通事故で入院したこともあり、断念した。
宝塚への夢を諦めた代わりに、瑞姫は声楽が本格的に学べる大学を選び、受験勉強や声楽のレッスンに励んだ末に、私立の女子大に無事合格した。
(わたしは漸くこの家から出て行ける。もうあの人と毎日顔を合わすこともない・・)
段ボール箱に書籍や衣類などの荷物を詰めながら、瑞姫は反りの合わない継母と漸く縁が切れると思ってせいせいしていた。
「姉様、入っていい?」
ドアが躊躇いなくノックされ、その隙間から幼い義理の弟が部屋の中を恐る恐る覗きこんでいた。
「真珠(まじゅ)、入ってもいいわよ。荷物を詰めるのを手伝ってくれる?」
「うん。」
真珠はそう言って部屋に入ると、瑞姫とともに荷物を詰め始めた。
「姉様、ここを出たらもう会えなくなっちゃうの?」
「そんな事ないわよ。夏休みや冬休みには遊びに来てもいいのよ。」
瑞姫が真珠に微笑んで優しい言葉を掛けると、彼は安心したかのような表情を浮かべた。
顕枝との仲は完全に冷え切り、彼女を母と呼ばなくなってもう何年か経つが、真珠を産んでくれたことに、瑞姫は密かに感謝していた。
母と義理の姉の不仲を知りながらも、真珠は瑞姫を純粋に慕ってくれているし、瑞姫も真珠と居る時だけ心が安らいだ。
「真珠、宿題やったの?」
「あ、忘れてた。」
「後はわたしがやるから、宿題をしなさい。」
「おやすみ、姉様。」
「おやすみ、真珠。」
ドアが閉まり、再び独りになると、瑞姫は黙々と荷造りを再開した。
「これでよしと・・」
一通り荷造りを終えると、瑞姫はベッドに入って目を閉じた。
翌日、彼女は朝の5時に目を覚ますと眠気覚ましにシャワーを浴び、着替えやパソコンが入ったスーツケースを持って階下へと降りていった。
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