「残念ですが、奥様の容態はかなり危ないものとなっております。恐らく、今夜が峠でしょう。」
「そんな・・」
今まで覚悟してきたつもりであったが、医師の口から環の命の灯火が消えることを知らされると、ルドルフはその衝撃のあまり床に頽(くずお)れそうになったのを必死に堪えた。
「妻に、会えますか?」
「ええ。お会いになられた方が宜しいでしょう。」
ルドルフは医師に頭を下げると、環の病室に入った。
「貴方・・」
「まだ寝ていろ。さっき沢山血を吐いていたんだ、無理をするな。」
ベッドから起き上がり、自分を見つめている環の顔は蒼褪めていた。
「菊は、何処に居るのですか?」
「菊なら、静さんと家に帰らせたよ。お前が血を吐いてしまったところを見て、激しく動揺してしまったから・・」
「そうですか。」
環はそう言うと、ルドルフにハンカチを差し出した。
「これを、菊にあげてください。」
「ああ、必ず渡すよ。タマキ、今から菊を呼んでこようか?」
「そうしてください。」
数分後、菊と静を乗せた車が病院の前に停まった。
「お父様、お母様は?」
「こっちだ、早く来なさい!」
ルドルフに案内され、菊と静が病室に入ると、環はベッドの上で苦しそうに喘いでいた。
「お母様、しっかりして!」
「奥様、菊お嬢様がいらっしゃいましたよ!」
菊と静の呼びかけに応えるように、環はゆっくりと目を開けて二人を見た。
「菊、来てくれたのね。」
「お母様、死んじゃ嫌!まだわたしの傍に居てよ、お母様!」
そう言って菊は、環の胸に顔を埋めて泣き崩れた。
「菊、泣くのはおやめなさい。貴方は武士の娘です、いつも毅然としていなさい。」
「でも・・」
「静さん、菊の事をどうか頼みます。」
「解りました、奥様。奥様の代わりに、わたしが菊お嬢様を立派にお育て致します。」
「菊、いつかまた縁があれば、必ず会えますよ。それまで、わたくしの代わりまで立派に生きて頂戴。」
「解ったわ、お母様。」
「お嬢様、奥様と旦那様を二人きりにさせましょう。」
静が気を利かせて菊と共に環の病室から出ると、ルドルフは環を抱き締めた。
「タマキ、お前が居なくなったら、わたしはどうすればいいんだ?」
「ルドルフ様、貴方と出逢えて、こうして夫婦になれて幸せでした。」
環はそう言うと、ルドルフの涙をそっと手の甲で拭った。
「どうか忘れないでください、わたしの魂は、ずっと貴方と共にあります。」
環はルドルフに微笑み、兄の形見である懐剣を渡した。
「これを、わたしの代わりに持っていてください。」
「ああ、解った。」
もう少しルドルフの姿を見ていたいのに、周りの景色が黒く歪んでゆくのを環は感じた。
「ルドルフ様、愛しています。」
環はそう言ってルドルフの手を握ると、ゆっくりと目を閉じた。
“環、やっと会えたな。”
環が目を開けると、そこには涼介と優駿が自分の前に立っていた。
“行こう。”
環は自分の前に差し出された兄の手を、しっかりと握った。
かつて東洋の舞姫と謳われた環は、40年の短い生涯を終えた。
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